【三国志】第一次北伐(諸葛亮)_付街亭考
勘の良い人ならこの辺で読めてくるだろう。諸葛亮の狙いは、魏軍を清水ルートより上邽に導くことだ。上邽の地形からすれば、諸葛亮が堅固な陣地を築くのは容易だ。そして張郃はここを攻撃せねば隴右へ進出できない。必然的に魏軍は陣地を攻撃せねばならない http://t.co/nwjBddaL
2012-05-11 21:36:06ところが馬謖は敗れ、蜀軍は略陽ルートを敵の手に渡してしまった。こうなると、主導権は魏に移る。魏軍が機に向かう場合や、上邽に向かう場合、或いは大きく迂回して隴西へ向かう場合も考えられる。姜維なら余裕で対応したかもしれないが、諸葛亮なら退く場面だ
2012-05-11 21:38:27列柳城を鳳県の双石鋪に比定する中国のサイト。演義をソースに引いてたりしてうさんくさい気も。他の中華サイトもいくつかみたが、双石鋪を列柳城としてた。 http://t.co/C9SdcoDV
2012-05-11 22:01:14そうなると、馬謖が責められたのは、街亭まで敵を引き入れたことではないだろうか?そこまで敵が来た時点で、敵を拒止するための利点は大きく損なわれる。問題は、街亭での戦闘の模様が分かりがたいことだ。馬謖がどこに布陣しても、汲道を絶つのは難しいと思う
2012-05-11 22:01:41仮に、今回の考えにしたがい列柳城の位置を推定するなら、張郃迎撃のために上邽近傍に築いた城を列柳城とする。馬謖が敗れた時点で諸葛亮は列柳城での迎撃を放棄し、高翔を残し馬謖軍の回収に向かった、と考えるのが都合が良い。封鎖された上邽に立て篭もっていた郭淮が、撤退に乗じて列柳城を破砕した
2012-05-11 22:10:52馬謖が敗れたので、諸葛亮は馬謖軍を回収し、撤退に移った。その際、列柳城に殿軍の意味で高翔を残した。もし、この間に列柳城が陥落したなら、諸葛亮には前進しても拠点が無い、ということになる http://t.co/NJhlyosL http://t.co/omvq6cnc
2012-05-11 22:28:57いや、待てよ。諸葛亮が西県に居て、まだ列柳城に到着していないとしたら、本当に前進しても拠点が無い、ということになる。また、諸葛亮が列柳城についていたなら、馬謖回収の為に大軍を割くより、他に策の講じようがある
2012-05-11 22:30:48恐らくこうだ。諸葛亮は先鋒として馬謖を街亭に派遣し、魏軍を清水ルートに誘導しようとした。更に別に高翔を派遣して魏軍迎撃のための城を築かせた(列柳城)。祁山から上邽までは回廊状の地形なので、自身は後方で兵站を監督しつつ、順次列柳城へ部隊を送っていた。
2012-05-11 22:34:30ところがどっこい、馬謖が張郃に負けちまった!高翔は馬謖軍全滅を避けるため、軍を分けて馬謖軍の回収に向かわせた。この隙を郭淮は見逃さなかった。戦力の低下した隙に列柳城を攻撃し、高翔を破った。 http://t.co/PTXDiNhz
2012-05-11 22:42:30馬謖も敗れ、列柳城も落ちてしまったので、作戦計画が根底から崩れた諸葛亮は、ムシャクシャして西県を攻撃し、住民を拉致って帰った。これが第一次北伐である。郭淮△ http://t.co/j2HuuIfl
2012-05-11 22:47:00んで、こんな感じやね。ここに順次部隊が集まり、張郃が来た頃には諸葛亮が列柳城に入り指揮を取る事になっていた、と。 http://t.co/gz9mVBnG
2012-05-12 01:06:50