【三国志】第一次北伐(諸葛亮)_付街亭考
@Jominian こういうのも。『郭淮伝』太和二年,蜀相諸葛亮出祁山,遣將軍馬謖至街亭,高詳屯列柳城。張郃擊謖,淮攻詳 營,皆破之。
2012-05-11 19:22:37@awawaasao2012 @yunishio 基本はそうですが、亮伝の扱いが若干困りますね。そもそも、遥か彼方に軍を派遣して、戦場や戦い方まで指定するとか変ですから。状況だって分からない上、どう変化するかも分からない
2012-05-11 19:24:51街亭の戦場にちかい略陽には巴夷の居留地があった。かれらの故郷はすでに蜀漢の支配を受けていたので、馬謖が街亭に進出すると多くの巴夷がこれに呼応したものと思われる。
2012-05-11 19:31:50@sweets_street @Jominian 諸葛亮自身の上疏だと、街亭と箕谷ですけどね。「至有街亭違命之闕,箕谷不戒之失,咎皆在臣授任無方。」
2012-05-11 19:36:58@yunishio @Jominian 高翔は馬謖の監督下で動いた別軍の1つだったんでしょうか?劉備時代から別軍を率いていた大物だから、違うような気がしますが
2012-05-11 19:39:29@sweets_street @Jominian 高翔は『李厳伝』の注に見える人で、前将軍劉琰、左将軍呉壱、後将軍呉班にならぶ、右将軍ですね。街亭のとき王平が裨将軍ですから、格が全然違います。
2012-05-11 19:44:53@yunishio @Jominian 前衛の指揮官に魏延や呉懿を推す意見もあったようですが、高翔も押されてもおかしくないクラスの人でしたよね
2012-05-11 19:48:31@sweets_street @Jominian 呉壱にならぶ官位ですからね。ただ、残念なことに列柳城の所在が分からない…。
2012-05-11 19:50:16@yunishio @Jominian 降格はされてなさそうだから、馬謖の敗北の責任を問われないような場所だったんじゃないかと推測するばかりですね
2012-05-11 19:51:54@sweets_street @Jominian 街亭で馬謖が斬られ、箕谷で趙雲が降格されてますからね。高翔の落ち度はそこまでいかない、ということなんでしょうね。
2012-05-11 19:57:10@yunishio @Jominian 手際の良さで評価された趙雲ですら降格だから、高翔が郭淮に敗れたとはいえ、敗戦責任を問われないぐらい作戦への関与が浅い立場だったのかもですね
2012-05-11 19:59:11清水県はかつては戎邑道と呼ばれていた。戎の土地だったのだろう。略陽県も略陽道だった。また、巴夷が連れてこられている。仮に蜀軍が天水の夷を扇動し、蜂起させていたなら、敵の進軍を街泉亭に誘導することができたのかもしれない。
2012-05-11 20:51:38清水ルートの欠点は、臨渭を経由してしまうため、作戦線が限定されること。瓦亭水に出さえすれば、冀県にも上邽にも出ることができる。敵に目標を定めさないようにできる
2012-05-11 21:17:14そうすると、仮に敵が街亭を使わず、清水へ南下したとしても、後方の諸葛亮が何とかできるだろう。更に、街亭周辺に蜀軍がいれば、それだけで魏軍の連絡線は脅かされる
2012-05-11 21:18:21街泉亭は遠いが、恐らく蜀軍の抵抗が最も少ない場所。魏にとって最小抵抗線となる。清水ルートは街亭の軍と諸葛亮で対応可能だし、街泉亭ルートは距離があるため、気付きさえすればなんとかなる。街亭への派遣はひょっとすると合理的かもしれない
2012-05-11 21:20:21また、もう一つの要素として、魏軍が街亭ルート或いは清水ルートを選んだ場合、そこから街泉亭ルートに切り替えることはかなり難しい。つまり、街亭と清水はギリギリまで切り替え可能だが、街泉亭は他への切り替えが出来ないということがある。
2012-05-11 21:22:48ここでこの地形が生きてくる。蜀軍としては、街亭と隴とを結ぶ街道の山地或いはその北側出口を押さえれば、魏軍の街亭進出を効率よく妨害できる。そして、魏軍としても、山地か南側の出口を守れば、比較的少数の軍で連絡線を防護できる http://t.co/UJSm4NVM
2012-05-11 21:27:50