先日の基礎論学会で人と話したことに関して個人的なメモ。但し話題をフォローしきれなかった部分もあるのでごく断片的なものです
2010-06-16 00:58:081)「Pである」を疑うさいに、「Pでない」を支持する証拠を根拠とするのでなく、合理的な他者が「Pでない」と信じていることを根拠とするのは合理的な態度か、という話になった。
2010-06-16 00:58:432)後者はせいぜい「Pでない」を支持する証拠があることの証拠であり、「Pでない」を直接支持する証拠ではない。とはいえ、信念形成過程において間主観性をどの程度重く見るかということも関わってくるだろう。
2010-06-16 00:58:583)ひとつ問題になるのは、そもそも両者がどの程度独立なのか(「Pでない」という証拠がなければ合理的な他者が「Pでない」と信じるとは考え難い)ということ
2010-06-16 00:59:364)これに関して、『12人の怒れる男』の一場面がいい例になるのではないか、と思い、そのことをちょっと話したんだけど、ちゃんと例になってるかどうか整理しつつ確認したい。話が若干うろ覚えなので、多少の間違いがあるかもしれません。
2010-06-16 00:59:495)少年が殺人罪のかどで裁判にかけられる。12人の陪審員のうち第8号ひとりだけが無罪を主張する。他の11人は「少年が殺したという状況証拠がいくつもある」と有罪を疑おうとしない。
2010-06-16 01:00:076)8号は珍しいと思われていた凶器のナイフが実はごく手に入りやすいものだった、という事実を示す。とはいえこれ自体は、少年が殺したことの証拠を、合理的ではあるがごくわずかな仕方で弱めるものに過ぎない。
2010-06-16 01:00:207)しかし、この後に陪審員第9号が無罪側に転じる。彼の言い分は、「私はあの少年が殺したと信じているが、この人がこんなに言うのだから、もっと時間をかけて検討するべきではないか」。
2010-06-16 01:00:348)ここで、「無罪」←「『少年が殺した』ということに合理的な疑いの余地がある」(「『少年が殺していない』と考える十分な証拠がある」ではない)。以下、P=少年が殺した、とする
2010-06-16 01:00:489)9号はここで「『Pでない』を支持する証拠がある」という8号の主張には必ずしもコミットしていないが、それでも8号が「Pでない」と(それなりに合理的な仕方で)主張していることをもって「Pである」への疑いの余地の根拠としている。
2010-06-16 01:01:0910)(但し、9号は文字通り無罪を信じているというわけではなく、自分が無罪に票を投じることの効果=話し合いを継続させること、が陪審員として求められる振る舞いである、と考えたために、戦略的に無罪に票を投じた、という、制度的背景と関連した側面はあるだろう)
2010-06-16 01:01:3211)というわけでこれは、「Pでない」と信じている人がいることが、「Pでない」を直接支持する証拠があることからは独立に「Pである」を疑う根拠を与える、比較的きれいな例にならんかなと思ったが
2010-06-16 01:01:4812)結局は9号をほんとに合理的と評価できるかどうかという問題になるか(物語上の位置づけとしては、9号はどちらかといえば合理的思考のできる冷静な人物であり、だからこそ彼が無罪に票を投じたことの意外性がお話を盛り上げるという流れだったと記憶している)
2010-06-16 01:02:1413)複数の状況証拠があり、どれも単独では決定的ではないが、まとめるとPであることが強く示唆される、ということを信念形成の手掛かりとしてどう落とし込むか、もポイントになりそうである
2010-06-16 01:02:29付記)『12人の怒れる男』は信念形成、態度決定のプロセスのいろいろということを考えながら見ると結構面白いのではないだろうか。もちろん普通に見ても面白いけども。
2010-06-16 01:03:03ちなみに、哲学をまだ始めていない時分に映画版を観て、昨年に蜷川さんの舞台版を観たのですが、結構印象が違った。映画版の9号は非常にヒロイックで格好良かったけれども、舞台版で改めて観ると9号は頑固というか屁理屈屋さんというか、ちょっと怖い印象。
2010-06-16 01:07:17たぶん舞台だと映画と違って誘導の役割を果たすカメラワークが無くて、議論するテーブルをひたすら外から見ている状態になるから、そういう印象になるのかしら。個人的にはそちらの方が好きでした。ともあれ9号役の中井貴一はひじょうに男前であった。
2010-06-16 01:09:00@tsutsuiharuka 作品を見ていないから分からないのですが,「疑わしきは被告人の利益にするという原則が働いている」ことが想像できる場合なのが気になります.あるいは,そういう時代ではない陪審の話なのでしょうか?
2010-06-16 01:11:12@tsutsuiharuka その場合,無罪評決に投票するために「Pでない」という信念を形成する必要がないように思われますが,どうですか?
2010-06-16 01:22:15@ueda_tomoo はい、それは8)に書いたことにあたるかと思います http://twitter.com/tsutsuiharuka/status/16234728090
2010-06-16 01:25:53@tsutsuiharuka ええ,その通りです.そうすると,"「Pである」を疑うさいに、「Pでない」を支持する証拠を根拠とするのでなく、合理的な他者が「Pでない」と信じていることを根拠とするのは合理的な態度か、という話"の検討材料としてどの程度有効かが,わかりませんでした.
2010-06-16 01:30:02@tsutsuiharuka @boku100kg 6)の8号さんは,「Pでない」と信じている必要はなくて,「Pである」ということを証拠立てる根拠が失われたこと,したがって合理的にPを疑えるなら無罪を投じるわけですね.彼は合理的なプレーヤーなら.
2010-06-16 01:35:23@tsutsuiharuka @boku100kg 9号さんは,8号さんが「Pを証拠立てる根拠がundermineされた」(Q)と主張することを根拠に,7)を主張したとするわけでしょう.
2010-06-16 01:38:49@tsutsuiharuka @boku100kg しかし,Qは重要な点で「Pでない」という信念と異なるわけです.「Pでない」ならば「Qである」けれども,「Qでない」場合にも「Pである」ことはありますから.
2010-06-16 01:41:11