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greenminkuma
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@greenminkuma :そうして<変容>の心身構造(層)的な場面の現出、位相の”食い違い”の様相をこなれた日本語で言い当てた表現が、<ずれ>(断層)という言葉なのである。
2014-10-31 11:34:36![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
【迷路の覚醒3】いいかえれば、なにごとかを思念するわたしの発語への”関心”(意識的でもあり得るし、無意識的でもあり得る)は、<風>の身体生理的な感受の様相を発端に して、現実の頬を吹く物的な<風>の場面から概念としての<風>の場面へ”変容した”と言い得るだけである。
2014-10-31 11:34:05![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@greenminkuma :博物学の空虚も生物学の時間も、<”言語”それじたい>を支える環境ではないだろう。(前田英樹『沈黙するソシュール』「ノートⅢ」)
2014-10-31 11:02:36![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
歴史主義的な言語学にとって必要なことはふたつある。ひとつは<事象対空虚>の対立図式でありもうひとつはその空虚の物質的な時間化である。「連続」と「変化」の結合は、この基盤のうえでなされる。・・・<言語(ラング)それじたい>は、生まれることも老いることも死ぬこともない。
2014-10-31 11:02:22![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@den6 :あっ、これも元ネタは、筒井康隆の「熊の木本線」にあるようですね。ブッダもブッタマゲターといったところでしょうか? いろいろ、面白い奇習がありますねw
2014-10-31 10:35:02![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@den6 :こういう説もあります。”「熊の木音頭」は、正調の歌詞を歌ってしまうと大きな災いが訪れると謂われる伝説の歌だったのである。わざと歌詞を間違えて歌うことで、「誰かが正しい歌詞を歌いはしないか」というスリルによって笑いを取るものであった。・・・”(第286話 熊の木本線)
2014-10-31 10:23:17![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
【青森・キリスト祭】<6月初め>昭和初期に竹内巨麿、山根キクなどにより、キリストの墓が戸来(へらい)にあるとされ、慰霊祭が行われ始めた。盆踊りの名手たちが墓の周りをヘブライ語にも聞こえる不思議な歌詞とリズムでぐるぐる回り踊る。 pic.twitter.com/umy1WBNA6K
2014-10-31 07:02:22![](https://pbs.twimg.com/media/Bya-JcTCEAAX2sW.jpg:medium)
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@greenminkuma :<身体>としてのわたしと<意識>としてのわたしが<瞬間>を契機にして二元論的に”分離”されたうえで、<意識>としてのわたしが<風だ>判断しているのではない、ということが問題なのだ。・・・blog.livedoor.jp/greenminkuma-h…
2014-10-30 10:23:57![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@greenminkuma :<判断>”(意識)の場面では”捨象=抽象されているからである。つまり第一次刺激の異同は問題ないのである。 ただ、”このわたし”を対象世界にたいする<現在>の総合と捉える方法からすれば、
2014-10-30 10:23:23![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
【迷路の覚醒3】なぜなら、わたしが酒を呑むためにガ ラスのコップを手にし、”手にした状態のままで”しばらく物思いに耽り、そして突然<(これは)ガラスだ>と意識した瞬間を考えてみればすぐに分るよう に、わたしの頬を刺激する空気の微粒の異同は、
2014-10-30 10:22:42![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
言語の明晰さは、言語の後ろに、つまり我々が我々の背後に背負っているかもしれない普遍文法の内にあるのではなく、言語の手前に、つまり紙の上の一つ一つの文字や声の一つ一つの抑揚の微細な動きがその意味として地平的に示しているもののうちにあるのだ。『世界の散文』
2014-10-29 14:04:31![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@greenminkuma :すると、”このわたし”の<感性>は、どこへ行ったのか? ・・・blog.livedoor.jp/greenminkuma-h…
2014-10-28 20:42:53![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@greenminkuma :ともに<わ たし>の根底に据えていることになろう。 そこで、一方の<わたし>を直接的には<言葉>の領域にとどき得ない異和の総称として<身体>と名づけ、また一方の<わたし>を<言葉>の領域を現出する異和の総称として<意識>と名づけておこう。
2014-10-28 20:42:00![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@greenminkuma :ふたつの対象知が成り立っていることになる。しかもこのふたつの対象知は、それらがともになにものかに”ついての”あ るいはなにごとかに”ついての”<判断>である以上、<知>の領域としての臨界の場面と場面を分割=現出し得たなんらかの異化作用(異和)を、
2014-10-28 20:40:59![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@greenminkuma :わたしは意識的にもしくは無意識的に喚び起こされている。 すると、このわたしの<判断>には、<瞬間>を時間的な分岐の臨界として<(これは)>と感じている身体生理的な<触知>の判断と、無数の言葉の中から <風>を選択=抽出し得た判断との、
2014-10-28 20:40:34![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
【迷路の覚醒3】現実にわたしの頬を吹く”なにものか”の存在は、わたしの頬に触れているかぎり、身体生理的な感受の内実をすでにわたしに与えている。また、わたしがそれを <風>という言葉で対象に付したかぎり、<風>に込められた”なにごとか”の思念の内実を、
2014-10-28 20:39:37![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@greenminkuma :<(これは)風だ>と判断(触知)している”このわたし”とは、<身体>としてのわたしであるのか?<意識>としてのわたしであるのか?・・・blog.livedoor.jp/greenminkuma-h…
2014-10-27 20:27:23![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@greenminkuma :事象の概念化についてのわたしの不安は、あるいはすでに概念化しはじ めている<わたし>の不安は、つぎのような揺れ方をしている。
2014-10-27 20:26:38![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@greenminkuma :けれどこの概念化の可能性は、わたしの<現在>からみれば不可避的なものではない。つまり<わたし>の不安な現在にとって、<不安>そのものを対象にし得る不可避な方法ではない。
2014-10-27 20:24:11![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
【迷路の覚醒3】おなじように<瞬間(の)判断>を間接的には測定不可能な 事態として、すなわち<時間>の方へも<空間>の方へも還元を許さない、逆に言えば<時間>の方からも<空間>の方からも超越した概念の極北として、たとえばわたしは<直観>という言葉でそれを括ることができる。
2014-10-27 20:23:49![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@greenminkuma :ひとつの事象をひとつの言葉で掬い上げた<瞬間>の現象を、微細な時空の往古へと還元する方法をとるならば、ただ近似の命名(概念化の遠近法)が境界を限る棒杭のように立ち現れてくるだけである。
2014-10-27 08:50:09![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@greenminkuma するとわたしは、わたしの頬 を吹き、わたしの皮膚(触覚)を刺激する現実の空気の波紋を、発語以前に<(これは)風だ>と判断した瞬間を持っているはずである。この瞬間の<判断>を どのような概念で理解するべきであろうか?あるいは理解することが可能であろうか?
2014-10-27 08:49:03![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
【迷路の覚醒3】わたしは<他者>(わたしじしんをも含む)になにごとかを告げるため、しかも”なにごとか”という言い方でしか表わせないために未定である<わたし>への発語の滞留から、あるとき突然解き放たれた。すなわち<わたしは・・・>と呟いた。発端は現実にわたしの頬を吹く<風>である。
2014-10-27 08:48:29![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@greenminkuma :もうひとつは言葉の”抽象力”という概念的な推力の問題である。 いま、これらのふたつの問題をひとつの問題に糾合し得るのかどうか、<わたし>の言葉に現れた<感性>の”起源”の問題から問うことにする。・・・blog.livedoor.jp/greenminkuma-h…
2014-10-26 17:01:43![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@greenminkuma :言葉じしんの発生の力学を想定して比喩的に集約してみせるなら、たぶんふたつの問題に当面するはずである。ひとつは言葉の”喚起力”(具象力と端的に言っていいのかどうか、いまはわからない)という感性的な合力の所在の問題と、
2014-10-26 17:00:11