#10cul 福嶋亮大『神話が考える』(青土社)刊行記念 「10年代の文化の地平」+蛇足
- millionsage
- 5106
- 1
- 5
- 0
もう要約できなくなってきました…とりあえず分かったのは、「リアルを語るべき経済学者の話がフィクションにしかならないこの現状に対して、目の前の現実からいかに歴史と接続されることが難しいか」ということです。休憩にはいりまーす。 #10cul
2010-07-06 20:11:17荻上:ポストモダニズムの消費性を考えると、全てがフラットになり一回一回の消費性に物語を見出されるとも言えると思うが、一方で富裕層と労働者の対立が消え去り小さな部分社会が逆に大きな問題として浮かび上がってくるような社会になってきている。 #10cul
2010-07-06 20:17:29休憩中。この話の流れだと小林よしのりの脱正義論に戻れ、というレベルになってしまうので、クリエーションの話題を絡めて別方向へのフリを期待 #10cul
2010-07-06 20:37:42福島:僕としてもそれはわかっていて、その話の中で表現に着目してあの本を書いたつもりです。東:僕は荻上さんのニューアカ的なものがもつ虚構的な政治性への視点への意見は本当に良くわかるけど、どちらかというと大文字の政治活動の背景も疑わしいと思います。 #10cul
2010-07-06 20:33:34後半戦。福島:市民が部分社会側から意義申し立てるという成熟した政治性を持てずに道徳的な正義(決断主義的なものだと言えるかもしれませんが)しか作用しないこの国において、どのように政治性を獲得しうるのでしょうか。 #10cul
2010-07-06 20:43:09福嶋さん「自分の本に向けられた、閉じた読者層しか相手にしていないのでは?という批判はまず受け入れる。そのうえで付け加えれば、岡倉天心が指摘したように、趣味性にもとづいた政治性という(日本特有の)可能性もありうることは提案しておきたい」 #10cul
2010-07-06 20:43:50荻上 それはそうだが動員の技術合戦ばかりが全面化してないか。ネットワーク社会でのストーリーテリングによる動員論に回収されない政治性をどうするかの言葉も福嶋さんに期待したいんだが(?) #10cul
2010-07-06 20:45:54市民階層の存在がそもそもモダンである状況だとしたら、日本はモダンにならずポストモダンになった、というのであれば、だからこそ(幼児的だからこそ)まだ日本には斜め上を目指せる可能性があって、サブカルチャーとの親和性が高いのかもしれない #10cul
2010-07-06 20:46:02アートやって生きていく、って経済的なことも含まれているのかしら。逆に経済的な側面以外に、社会にコミットすることが出来るのかなー #10cul
2010-07-06 20:52:07