もっと言うと、曹操は馬超討伐から帰る時点で、隴右で馬超が騒ぎ出すことを危惧する進言を受けているわけで。それでも帰還を強行し、残った夏侯淵には馬超にどう対応するか指示すら与えていなかった。曹操が隴右をどう見ていたか分かるというものだ。隴右より魏郡を大きくする方が大事だった
2012-08-01 20:59:59@Jominian 関中を平定→魏公 呉を降伏させ荊州を取り戻す(配下になった呉が)→禅譲 という流れなわけですね。涼州はフラグ立たないと思われたんですね
2012-08-01 21:02:35建安十六年十二月曹操鄴に帰る。建安十七年正月馬超隴右で反乱す。建安十七年多くの県が魏郡に組み込まれる。建安十七年八月冀県陥落す。 丞相余裕っすね
2012-08-01 21:04:27@Golden_hamster もともと支配してないし、フラグ立ったら立ったで放っておいて、後で平定すれば良いじゃん、って感じかと
2012-08-01 21:05:36夏侯淵の発言も面白い。梁興討伐の時点で韋康が包囲されてたのに、韋康が殺され楊阜らが決起するに及んで「丞相に問うていたら楊阜らが危ない(棒」とか言っちゃってる。韋康が殺されてから楊阜決起まで1ヶ月しかないのに、この変わりよう
2012-08-01 21:08:18@Golden_hamster ただ、長安から鄜まで片道200kmもあるので、1ヶ月くらいは掛かっちゃうんですね。だから、夏侯淵が長安に帰還したのは早くても3月頃なんですよ。それでも韋康の敗死まで5ヶ月あるけどね
2012-08-01 21:16:46@Jominian 好意的に解釈するなら、「アカンまにあわへん」って思ったとかですかね?まあ楊阜たちのryって所に戻ってきそうな気もしますが
2012-08-01 21:18:58@Golden_hamster 大雑把に測ると、長安から鄜まで行って、そこから長安に戻って冀県に行こうとすると、道程は800~900kmなんですね。行軍に約100日要する距離。ちょっと頑張らないと救援はできないですね。頑張ればできますけどね
2012-08-01 21:24:58冀県から二百里の地点まで来たってことは、夏侯淵先生は鄜と隴右を転戦し、800kmくらいは行軍したわけですね。梁興が強敵だったとお茶を濁しておくのが、みんなが幸せになる結論かもしれないね
2012-08-01 21:29:59趙昂らが馬超を退けたことを、楊阜伝以外は建安十九年のこととしている。しかし、建安十九年には、馬超は張魯の元を去って氐族の居住地に入り、更に益州の劉備に合流していなければならない。ちょっと時系列的に建安十九年を反攻の起点とするのは無理がある
2012-08-01 21:44:24馬超伝に付された典略よれば、馬超は張魯に身を寄せた後、張魯から兵を借りてしばしば北征している。また、建安十九年の正月に年賀を祝おうとする董种とのやり取りがあるが、これも漢中でのことである。建安十九年というのは、馬超が完全に敗れた年を指しており、趙昂らの挙兵はもっと前である
2012-08-01 21:49:10とすると、趙昂らの挙兵を楊阜伝にある建安十七年九月とするのが良さそうである。しかし、そこから建安十九年に馬超が完全に逃走するまで、実に一年半の抗争が必要になる。これはちょっと長いようにも思えるし、楊阜らが救援を頼んだのがやっと建安十九年になってからというのも不自然になる
2012-08-01 21:56:45ただ、趙昂らの決起を建安十七年としない積極的な理由も無い。建安十七年に一度追い払われた馬超は、漢中に入って張魯に身を寄せ、その軍兵を頼みに再び隴右に来たのが建安十九年とすることもできるからだ。間に束の間の平和があったと思えばよい
2012-08-01 22:04:15そうすると、益々丞相のえげつなさが際立つな。建安十七年に隴右を放置して帰り、同年秋に趙昂らが馬超を追い払うと、無邪気にこれを褒め称えて楊阜らに爵位を与えようとする(楊阜は辞退)。建安十九年に再び馬超が現れると、我関せずと籍田を耕し、金璽を貰って喜んでいる
2012-08-01 22:11:45楊阜としては、「韋康様を救おうとしなかったくせに、我々が独力で馬超を追い払った途端に掌を返すように。ふざけるんじゃない」という気持ちだったであろう。それが、建安十九年に馬超が再び現れたことで、不本意ながらも曹操に頼らざるを得なくなった。彼らの心情はいかばかりか
2012-08-01 22:14:42本当は、建安十七年に馬超が追い払われた後、散発的に馬超が仕掛けてきて、抗争がずっと続いてた方が面白いんだよな。夏侯淵の発言の白々しさが凄い際立つ。長きに渡る隴右での抗争を横目で見ながら、一切介入しない。やっとこさ救援要請が着たら即座に反応。
2012-08-01 23:17:57韋康を救えなかったせいで、関中の曹操軍と隴右の韋康の遺臣の間に亀裂が入っていて、夏侯淵が下手に動けなかったと考えると、当時の情勢が面白くなる。建安十九年に夏侯淵が楊阜救援に動いたことで、韋康の遺臣と曹操との関係が、首の皮一枚で繋がったことになる。
2012-08-01 23:19:59