三浦つとむさんの誤謬論

自分のために三浦さんの誤謬論をまとめておこうと思う。
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木下秀明 @khideaki

誤謬論75:三段階論的視点というのは、抽象理論と現象論との正しい区別という判断において重要に感じる。毎日の報道では事実としての現象はたくさん語られる。そこから導かれる実体論・本質論は、そこから誤差的なものを捨象して本質的だと思われるものを抽象する。その解釈を読み取ることは大事だ。

2012-08-28 10:03:57
木下秀明 @khideaki

誤謬論76:三浦さんは実践におけるやり損ない(誤謬)に関してその原因を語るエンゲルスの言葉を引いている。それは二つある。一つは「我々の証明の根拠になっている知覚が、それ自ら不完全で皮相であった」というものだ。エンゲルスは実践における成功が我々の認識が正しいことの証明だと語っている

2012-08-31 22:55:26
木下秀明 @khideaki

誤謬論77:認識が正しくないとき、すなわち間違っているときは、まず原因を我々の「知覚」に求めている。錯覚こそが誤謬の原因だと言うことだろうか。「皮相」というのは、表面しか見ていなくて、隠れているものにまで目が行き届いていないと言うことだ。この「皮相」を補うものは想像力だろうか。

2012-08-31 23:00:08
木下秀明 @khideaki

誤謬論78:三浦努さんは直接見えないものを見る想像力を「頭の中の目」と呼んだ。この目がよく見えるようにするのが学習であり賢さだ。知覚が錯覚であることを知るには、正しい知覚を知らなければならない。だが最初から正しい知覚はない。むしろ実践の失敗によって知覚は間違いを自覚できる。

2012-08-31 23:02:57
木下秀明 @khideaki

誤謬論79:実践の失敗から知覚の間違いを悟るというのはまだ正しい知覚へ到達してはいないがそちらの方向への一歩を踏み出したことになるのではないか。エンゲルスの指摘の重要さはここにあるように感じる。知覚の間違いは知覚にとどまっている限りではわからない。実践からのフィードバックで分かる

2012-08-31 23:04:48
木下秀明 @khideaki

誤謬論80:エンゲルスが語るもう一つの原因は「この知覚が、事の本姓上正当と認められない仕方で他の知覚の結果と結びあわされていた」というものだ。この指摘は、知覚が正しくても、それと他の知覚との関係の判断で間違えることがあるというものだ。つまり論理的な判断の誤謬を語っている。

2012-08-31 23:07:35
木下秀明 @khideaki

誤謬81:この判断の間違いは、よく似ているものが本質的に同じだと判断してしまい、実は本質では違っていると言うときに、「正当と認められない仕方で結びあわされて」しまう。これもよく似ている場合は、その判断の間違いを悟るのは難しい。やはり実践的な間違いから逆に悟ることになるだろう。

2012-08-31 23:09:36
木下秀明 @khideaki

誤謬論82:エンゲルスは、この認識の間違いの原因に対して「そのいずれかであると言うことが、我々に明らかになる」と語っている。このほかには原因がないと語っている。これはあまりに単純すぎないかと思いたくなる。だがこれを本質論的段階という最高度の抽象だと理解すると納得できる。

2012-08-31 23:11:57
木下秀明 @khideaki

誤謬論83:認識を誤らせる原因は、現象論的にはいくつも指摘できるだろう。だがそれを抽象化すれば、外の存在をどう受動的に受け止めるかという「知覚」の問題と、頭脳がどう積極的に現実に働きかけるかという「判断」の問題の二つに分けられるのではないか。これ以外のものがあるだろうか。

2012-08-31 23:14:53
木下秀明 @khideaki

誤謬論84:認識の間違いが実践的に現れてくるのはそこに期待はずれが生じるときだ。期待通りの結果が得られないとき、我々はそこから逆にたどって認識の間違いを悟る。そして間違いの原因は、受動的な「知覚」と能動的な「判断」のどちらかにあることになる。この誤謬論はフィードバックで重要になる

2012-08-31 23:17:06
木下秀明 @khideaki

誤謬論85:大飯再稼働をしなければ電力不足で大変なことになると言われていた。しかし実際には再稼働をしなくても電力不足が起きなかったと言うことがデータによって明らかになった。では、「再稼働しなければ大変なことになる」という認識の誤りの原因はどこにあったのか?「知覚」と「判断」は?

2012-08-31 23:22:08
木下秀明 @khideaki

誤謬論86:知覚というのは様々なデータを指すように思う。これに関してはあからさまな嘘はつきにくいだろう。だから認識に間違いの原因は「判断」にあるのではないか。橋本さんが再稼働容認を判断したのは、停電による経済への影響だった。それ以外は何とか対処できるものだったように思う。

2012-08-31 23:25:04
木下秀明 @khideaki

誤謬論87:判断の間違いの最重要なものは、停電によって経済が悪影響を受けるというものだったのではないか。この判断が、「事の本性上正当と認められない仕方で他の知覚の結果と結びあわされていた」のではないか。電力不足はなかったという事実に対して「再稼働したから足りた」と強弁する人もいる

2012-08-31 23:28:43
木下秀明 @khideaki

誤謬論88;だが大飯再稼働分の電力を差し引いても消費電力は下回っていた。この現実を再稼働したから足りていたと強弁するのは明らかに詭弁だ。「原発がなくても乗り切れた夏。関電の停電リスクデマを言い募った橋下徹・大前研一・池田信夫各氏の責任は?」http://t.co/DN1Hu66j

2012-08-31 23:37:35
木下秀明 @khideaki

誤謬論89:大飯再稼働をしなければ電力不足が起きるという不当な判断はどうしてもたらされたのか。それは「電力不足」という定義と判断にその原因があるように感じる。電力は供給と需要に複雑な状況の違いがあり、一律に判断できないものであるにもかかわらず、都合のいい前提で判断している。

2012-08-31 23:41:49
木下秀明 @khideaki

誤謬論90:正しい判断は、飯田哲也さんが指摘していたが、様々な工夫によって供給と需要を調整することで不足を避けるというものだったと思う。節電の工夫もあるし火力発電をピーク時に使うという工夫も出来る。それは再稼働をしないという前提で出てくる判断だ。逆の判断は再稼働ありきから出てくる

2012-08-31 23:44:32
木下秀明 @khideaki

誤謬論91:再稼働をしないという前提と再稼働ありきという前提は、同じように論理の前提であるのに正しい判断と間違った判断という逆の結果をもたらす。一つは実践の指針を導く論理になるのに、もう一つは結果を無理矢理正当化する論理になるところに違いがある。これも一つの誤謬論だろうか。

2012-08-31 23:47:09
木下秀明 @khideaki

誤謬論92:三浦さんは「失敗は人間の精神活動と大きな関係があります」と書いている。これは失敗=誤謬というのは人間が行うものであって、客観的な外部の存在が間違っているということはないということだろう。事実は事実であって、それをどう受け止めるかという人間の側に誤謬の本質がある。

2012-10-04 09:58:45
木下秀明 @khideaki

誤謬論93:何が事実かという判断にそもそも人間の認識の限界が伴う。かつて本多勝一さんが指摘したことだが、外界の事実というのは無限にたくさんある。人間はその中から自分に重要だと思うものを選択している。これは三浦さんも認識の限界として指摘していた。我々には選択された事実しか見えない。

2012-10-04 10:03:35
木下秀明 @khideaki

誤謬論94:我々の選択に、個人的なバイアスがかかるのと同時に、情報の提供者にも、隠してある情報というものがある。その事実が判断にとって重要であっても、隠されていればないことと同じになる。原発事故に関してはそのようなものがたくさんあるに違いない。消費税の議論でもそうだっただろう。

2012-10-04 10:05:36
木下秀明 @khideaki

誤謬論95:三浦さんは、大本営発表にあふれていた戦争中に、日本はやがて戦争に負けるということを予想していた。それは自分の生活環境が日増しに苦しくなり、大本営発表との整合性がとれないと判断していたからだ。これは物事をつながりの中で考えるという弁証法的な発想を利用している。

2012-10-04 10:07:46
木下秀明 @khideaki

誤謬論95:人間が見たくないものを見ないで判断を誤るというのは、認知的不協和理論などという難しい言葉でも語られているが、誤謬が人間の精神活動と深い関係があるということの表れだろう。見たくないものをあえて見るという動機を作るにはどうしたらいいか。それが訓練のために重要だろう。

2012-10-04 10:10:05
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