三浦つとむさんの誤謬論

自分のために三浦さんの誤謬論をまとめておこうと思う。
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木下秀明 @khideaki

誤謬論①坂梨喬 @kyodogensoさんとの対話で三浦つとむさんの「誤謬論」を思い出した。久しぶりに三浦さんの文章を繙いて誤謬論についていくつか呟いてみようと思う。まずは一般論的なものから。「普遍性と特殊性の混同」という指摘で語っている誤謬について三浦さんはよく語っていた。

2012-08-21 23:30:46
木下秀明 @khideaki

誤謬論②個別具体的な例をいくつか挙げて、そこから普遍的な命題を引き出そうとするのが「普遍性と特殊性の混同」だ。事実の指摘は個別性の問題であって、それだけでは普遍性の判断は出来ない。普遍性の判断をするには、それが一般的であるという本質の把握が必要だ。それがないときに誤謬が生まれる。

2012-08-21 23:33:00
木下秀明 @khideaki

誤謬論③官邸前の抗議行動に関して、今までの左翼的な運動では、必ず過激な人間が出てきてその運動をかき回しいるという事実を持ってきて、官邸前の行動に関しても必ずやそういう人間が出てきて運動を破壊すると主張しているものがあった。これなどは個別的な事実から、運動の失敗の普遍性を語っている

2012-08-21 23:35:28
木下秀明 @khideaki

誤謬論④運動の失敗を具体性から学ぶには、そこに生まれる過激な分子がどのようにして運動を破壊していくかというメカニズムを学ぶ必要がある。そこには主張を通すためには手段を選ばずと言うような行為が必ず見られる。むしろ宣伝のために弾圧を受けやすい過激なことをするという面も見られる。

2012-08-21 23:37:31
木下秀明 @khideaki

誤謬論⑤運動そのものが本質的に過激な分子を必ず含むものなのかどうかの判断で、そこに一般論が成立するかどうかが決まるだろう。もし、運動そのものがそのような性質を持たないのであれば、具体的な存在として過激分子がいたとしても、官邸前の行動には適用できない。「普遍性と特殊性の混同」になる

2012-08-21 23:41:09
木下秀明 @khideaki

誤謬論⑥三浦さんは誤謬の本質を「逸脱」に見ていた。これは三浦さんが尊敬していた労働者哲学者ディーツゲンの見解だ。ディーツゲンは次のように語っている。「誤謬が真理と異なる点は、誤謬はそれが表している一定の事実に対して、感覚的経験が保証する以上にヨリ広い、ヨリ一般的な存在を度外れに…

2012-08-21 23:45:12
木下秀明 @khideaki

誤謬論⑦「(続く)…度外れに認めるところにある。誤謬の本質は、逸脱と言うことである。ガラスの玉は、本物の真珠を気取るとき、初めて偽物となる。」<逸脱>というキーワードでいろいろな言説を見てみると、そこに誤謬が発見できるだろう。まさに<逸脱>こそは誤謬の本質だと思う。

2012-08-21 23:48:51
木下秀明 @khideaki

誤謬論⑧三浦さんが指摘した「逸脱」というのは、真理を成立させる条件からの「逸脱」を意味していた。真理というのは無条件の絶対的なものではなく、特に現実に対する言明としての真理は、それが真理であるための条件を持っている。その条件を逸脱すれば、真理が誤謬に転化する。この見方が重要だ。

2012-08-22 20:48:38
木下秀明 @khideaki

誤謬論⑨真理と誤謬というのはものごtの裏表のようなもので、同じ現象・同じ命題が、あるときは真理になり、あるときは誤謬になる。だから誤謬論が重要なのだ。明らかに誤謬だと分かるものには誤謬論は必要ない。真理だと錯覚させるものの誤謬性を見破るためにこそ誤謬論が必要になる。

2012-08-22 20:50:25
木下秀明 @khideaki

誤謬論⑩三浦さんの誤謬論で大事な用語に「相対的真理」「相対的誤謬」というものがある。どちらも条件付きの仮言命題として提出されるものだ。ある条件の下での真理は、その条件を失えば誤謬になる。条件の成立が真理の成立に影響を与える点で「相対的」という形容でそれらを呼んでいる。

2012-08-22 20:52:34
木下秀明 @khideaki

誤謬論⑪その真理があまりに鮮やかであると、真理性に目がくらんで、それがどこでも通用するものと思い込みたくなる。そのときに誤謬に陥る罠が待ち構えている。条件を逸脱しているかどうかは、真理性に目がくらんでいるときには気づきにくい。何か変だと直感するようなものは「逸脱」に注目してみよう

2012-08-22 20:54:46
木下秀明 @khideaki

誤謬論⑫ディーツゲンは「真理とは何かという問題は、真理と誤謬との区別移管という問題と同一なのである」と語っている。この誤謬論は、安冨歩さんが論語を解説した際の発想に似ている。<真理/誤謬>という対立した二者の区別がついたとき、「真理」が分かったという判断の構造を持っている。

2012-08-22 21:05:37
木下秀明 @khideaki

誤謬⑬真理とは何かということを固定的に定義するのではなく、真理が常に誤謬に転化するという性質を持っていることから、現実においてはそれの区別こそが真理の正しい理解だという誤謬論だ。安冨さんは知と知でないものとの区別をつけることこそが「知」であると書いていた。弁証法的なとらえ方だ。

2012-08-22 21:08:33
木下秀明 @khideaki

誤謬論⑭知は単に表現された文章としての知識を頭にため込むことではなく、常にフィードバックの学習によって新たに書き換えられる。現実の弁証法的対象は常に変化しているからそのような理解になる。真理もやはり弁証法的対象だからこそ、常に現実の条件を考慮して問い返す行為にこそ真理性がある。

2012-08-22 21:10:38
木下秀明 @khideaki

誤謬論⑮三浦さんは「誤謬は認識にとって本質的なものである」と指摘する。これは認識というものが常に逸脱の可能性を持っていることから判断している。人間の感覚的認識は錯覚の可能性を常に持っている。そして論理的な認識も前提条件を見逃すという可能性を常に持っている。それから逃れられない。

2012-08-22 21:15:12
木下秀明 @khideaki

誤謬論⑯三浦さんの誤謬論が素晴らしいのは、あるときに真理だからと言って、その真理がいつまでも通用するという錯覚に陥ってはいけないという戒めとして働くことだ。真理をつかんだ人間はこの錯覚に陥りやすい。若いときに懸命な人間であっても、同じことを続けているといつかは誤謬に陥る。

2012-08-22 21:17:32
木下秀明 @khideaki

誤謬論⑰三浦さんは「客観主義」という誤謬についても論じていた。これはある種の批判において、対象そのもの、たとえば言説を取り上げるのではなく客観的な属性から批判を引き出そうとするような誤謬だ。マルクス主義においては、ブルジョア出身だと言うことで内容の検討もなく批判されるようなものだ

2012-08-22 22:34:56
木下秀明 @khideaki

誤謬論⑱「客観主義」の誤謬は、批判すべき対象を直接批判できないときに、批判しやすいものを批判して、対象を批判したつもりになるときに現れやすいのではないかと思う。小沢さんに対するバッシングにはこの誤謬がかなり見られたのではないかと思う。たとえば政治家が不動産を購入することについて…

2012-08-22 22:39:08
木下秀明 @khideaki

誤謬論⑲不動産の購入は、それによって金儲けをするというイメージがある。このイメージの客観性が、実際の小沢さんの不動産購入に存在しているのかどうかを検討して批判しなければならないのに、イメージがあるという客観の方を批判して小沢さんを批判したように勘違いする。実際の目的はどうだったか

2012-08-22 22:40:55
木下秀明 @khideaki

誤謬論⑳小沢さんの説明は、秘書の生活するアパートの建設に使うというものだった。これがおかしいと考えるなら、これ自体を批判の対象にしなければならない。だがそれは見られなかった。批判の大部分は、「政治家が不動産を買うなんておかしい」という、一般論とも言えないような感情だった。

2012-08-22 22:42:50
木下秀明 @khideaki

誤謬論21:実際には土地購入のおかしさは、値上がりする土地を事前につかんで購入するなど、調べれば正しく指摘できるものだろう。おかしいなら指摘できなければならない。小沢さんへの批判で、この種の指摘は一つも見なかった。小沢さんへの批判にはまともなものが見つからない。誤謬ばかりだ。

2012-08-22 22:44:57
木下秀明 @khideaki

誤謬論22:客観主義の間違いを三浦さんは「主体的活動そのものを検討しない」という点に見ている。「主体性を無視している」と指摘している。これは弁証法性を無視すると言うことに繋がる。主体の活動は常に変化を伴い対立物を背負っている。だが客観は固定していて真理が誤謬に転化しない。

2012-08-22 22:52:16
木下秀明 @khideaki

誤謬論23:客観の方に真理の基準を押しつけておくと、その真理は客観が存在する限り真理性を失わないですむ。思考停止していられる。フィードバック的な学習をせずに真理を信じていられる。客観に真理の基準を押しつけるのではなく、真理の前提となる条件を客観的に求めなければならない。

2012-08-22 22:54:51
木下秀明 @khideaki

誤謬論24:「懐疑」を巡る誤謬についての次の言説は貴重だ。「懐疑と聞くと、諸君は何か異常なことのような気がするかもしれぬ。そういう気がするのは、懐疑そのものだけを切り離して考える癖がついているからである。ただ疑うだけで、あれも信用できぬこれも怪しいと言うにとどまるならば、…(続く

2012-08-22 22:58:37
木下秀明 @khideaki

誤謬論25:「(続く)…それは確かに異常であり、懐疑論者である。懐疑は、主体的活動において解決されるべきものである。すなわち懐疑は、実践に結びつかなければならぬ。」<切り離す><結びつく>というキーワードでこの誤謬をとらえたい。切り離すのは非弁証法的発想でこれが誤謬に繋がる。

2012-08-22 23:00:57
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