心はフィクションである
- aoinatsunosora
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@ynabe39 そうであれば、最初からそういえば言いだけの話でしょう。【心は実在しない】という命題は、どのような意味でも心は実在しない、と宣言しているでしょう?
2012-08-26 01:04:13渡邊先生の言っていることを真に受けると、心が存在しないのと同様に東京も存在しないし鳥取も存在しない。新幹線も存在しないし、眼鏡も存在しない。ということではなくなくない?
2012-08-26 01:05:19機能的・関係的な実在としての心の実在はまさに幽霊や霊魂の実在と同じ「次元」での実在です。同時に、霊魂や幽霊の実在を否定する論理では心の実在も否定できてしまいます。あとはまた明日。 RT @123_euglena: 霊魂・妖怪・幽霊と心とは次元の異なる存在です。
2012-08-26 01:15:43@ynabe39 「心」や「畜産大」の(非)実在については多分納得できてるのですが、説明に使われた「○○川」がすっきりしません。あるいは「(具体的なブツとして目の前にある)りんご」は実在しますか。「○○川」と「○○川の水」「りんご」「りんごの種」の違いは? 横からすみません
2012-08-26 06:12:25哲学の問題はみなそうです。誰かに指摘されるまでは問題の所在にも気づかないが、指摘されれば昔からわかっていた当たり前のことに思える。 RT @123_euglena: 札内川とか畜大の例示のような形での話であれば、別に沢山の著書や論文を読む必要がないほどの、事柄だと思います。
2012-08-26 07:12:32しかしライルが1949年に書くまで、誰もカテゴリー錯誤の問題をライルのように文字に書いて指摘した人はいなかった。ヴィトゲンシュタインが指摘したたくさんの問題もそうです。「言われてみれば当たり前」のことも言われなければ誰も考えない。
2012-08-26 07:14:49私がライルの文献を示したのは「それは渡邊の独自の考えだろう」「そうでないなら論拠を示せ」というからであって、それを読まなくても適切に説明されれば多くの人がその論点を理解するのは昨日からのTLでわかることです。しかしライルが指摘しなければいまも誰もそれを理解していないかもしれない。
2012-08-26 07:17:44「リンゴそのもの」の問題はヴィトゲンシュタインが「カテゴリー」について考えた例です。100個のリンゴはひとつひとつ形も模様も色も少しずつ違うのに、すべてがリンゴであるとはどういうことか。これを彼は「家族的類似性」という言葉で説明しました。@brandywine_p
2012-08-26 07:21:46分析哲学、日常言語学派は「私たちが当たり前に考え語っていることは実際に何を言っているのか」がテーマですからね。 RT @Rin_Subaru: 分析哲学系は特に「言われてみればそりゃそうだ」といいたくなるような話が多いですね。分析哲学史自体が「そりゃそうだ」の集積に見える…
2012-08-26 07:26:21それが「20世紀の哲学」だったわけです。 RT @Rin_Subaru: 厳密にはプレ分析哲学なのかもしれないですが、やはりヴィトゲンシュタインの時からそういう方向性の萌芽はありますね RT @ynabe39: 分析哲学、日常言語学派
2012-08-26 07:31:03@Rin_Subaru けっきょく21世紀まで影響力というか「意味」を保ったのは「現代思想」系ではなく分析哲学的なテーマであったと思います。ただそれは私が哲学者ではないからそう言えるのかもしれない。
2012-08-26 07:35:07機能の総体としての神は実在します。実際に神のためにお金や資源が動き戦争している人までいるんだから。 RT @hiromu1982: 渡邊芳之先生(@ynabe39)が先日来おっしゃっている「心は実在するか」問題を見て、「心」を「神」に置き換えて考えることもできてまた興味深い。
2012-08-26 10:51:56理学部生を中心とした「新しい科学の会」(新科)というのに入っていた。原子核や素粒子の教員に「唆されて」作られたサークルだ。核崩壊のように(今は)消滅しているかもしれない。科学と方法、科学と社会、科学と歴史を三本柱のテーマとして議論していくサークルだ。懐かしいな。
2012-08-26 12:35:20新科は民青(なんと、変換辞書にない!)(共産党の「指導」を受ける青年組織)の下部組織だと揶揄するものもいたが、実際はそうではなかった。「科学と方法」と言っても、渡邊さんの考えているような科学哲学のそれとは全く異なる意味での「方法」だ。
2012-08-26 12:39:44「科学」の定義を巡って渡邊さんとTWしたことがあり、その場ではそこでの本論と外れるので言及を敢えて避けたが、科学が「制度としての科学」(バナールの著書の題名だったかな)であることを充分に心得ているつもりだ。
2012-08-26 12:43:46科学と方法、というテーマの底流には、優れた科学研究を行うにはどのような方法論を用いたらいいだろうか、という目的意識があった。皆、科学者の卵だからね。そういうわけで、分析哲学とか論理実証主義などは「どうでもいい哲学」「何、馬鹿いってんの」という類のものだった(少なくとも僕には)。
2012-08-26 12:48:21「科学と方法」の啓蒙活動方面で、最も熱心だったのは物理学者の武谷三男だったと思う。科学にとって有効な哲学を!というようなスローガン(というか、論説の題名)もあった。彼の編集したある書籍(勁草書房)は、様々な哲学流派ごとの解説論考集があって、大陸合理主義とか分析哲学もあった。
2012-08-26 12:53:44そういうわけで、「分析哲学」なるものの用語を当時知っていたわけだが、、、それはまぁ、科学研究に有効とはとても考えられない代物だ、ということが分かり(と思った)、深く勉強する意欲も機会も、全く生まれなかったわけだ。科学研究にとっては衒学なんだよ。
2012-08-26 12:56:28