【シューニャリアーナ】「面白きことも無き世を面白く」?【出来るか!】
- L_O_Nihilum
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「そのままでは愉しみようのない物の構造を組み替えることで面白く」と言うけれど、構造の組み換え自体がデータ的に記録され、人を釣るためのシステムとして振り回されているという課金制的現状で、それを面白く、享受者は受け取れるか?
2012-08-24 14:34:57えられるのはデータと観念しかない、そういう状況で。プレイヤーにできるのはそうして組み替えられたデータの集まりの提示を喜んだりするにとどまるし、それも一時的なものだ。なぜならそれは残らないわけだし、飽きたらまた新しい課金制ゲームに移行するわけだから。
2012-08-24 14:36:10組み替えられたデータ、面白くするために組み合わせられたもの。しかしそれを所有してものにする、ことは出来ない。消費しかできない、データベース消費。そこに、「そのままでは愉しみようのない物の構造を組み替えることで面白く」なんて受け取り方が、出来るだろうか?
2012-08-24 14:37:43「受け取る」ことは、楽しみ、また考えたりする、という反復のなかにあるが、それをする頃にはもうそれが遊べない、触れる事も許されないという儚い、ソフトでもない物であるならば、そうして考えること、すら享受者は諦めてしまうだろう。意味ない、と思ってしまう(そもそもソレが向こうの狙いだ)。
2012-08-24 14:39:10確かに考えることはできるだろう。しかし楽しむ楽しませ方がカードゲームのように単純で、戦いのバランスも課金し続けなければうまくいかないという状況のなかで、そうした「受け取り」が出来るとは考え難い。
2012-08-24 14:40:10「そのままでは愉しみようのない物の構造を組み替えることで面白く」、しかも考えたり再び遊んだりして受け取る、という事はどうしてもできない。出来ても、限界があるし、考えているとき、そこにそのゲームは無い。そうしたものに、享受は殆どない。
2012-08-24 14:41:40『面白きことも無き世』が、もしそういうゲームが氾濫した世の中のことを指しているとしたらどうなるだろうか?面白がる(=受け取る)ことが出来ない世の中を、見方を変えて無理にでも楽しめ、という言い方をしている、消費論肯定的な語として扱える可能性すら出て来てしまうのである。
2012-08-24 14:42:40可能性すら出て来てしまう、どころか、もうそう解釈しうる、地点でその解釈で使えてしまう。そう考えると、「面白きことも無き世を面白く」とは、ずいぶんと酷い言葉にも聞こえてしまうのである。特にこんな世の中で放つモンじゃない、とさえ思うほどに。
2012-08-24 14:43:38分かりにくいだろうか。では、もう少し分かりやすくしていこう。「超クソゲー」が出ていたとき。多根清史がクソゲーと言われる一連のゲームを遊んでいたとき、確かにそれはクソゲーだけれども、それが解るのはゲームを遊んだあとである。
2012-08-24 14:45:35例えばその一時期クソゲーばかりが出ていたとしよう。そうするとそのような現状を嘆いて、クソゲー雑誌が組まれるだろう。というか、超クソゲーとはそうしたようなコンセプトで書かれた本である。しかしそこでは、遊んだ多根氏の享受の記録がちゃんとあって、その遊んだ、という受け取りによって、
2012-08-24 14:46:32つまり、クソゲーであらんかぎりそのクソゲーをクソゲーとして受け取り、ちゃんとその想い出を遺してそこに置いていて、ちゃんとその記録も残せる状態になっていたわけである。そして、その遊んだ感想や感情、憤りや哀しみから、「クソゲー」という言葉が出ているのである。
2012-08-24 14:48:43これはどういう事か?「クソ」であることを享受したという事、それについて考えたという事である。「クソ」な具合に変ゲーなんだけど、その変、駄目であるところに愛を持って語っている。つまりそのクソさを受け取れているという事だ。
2012-08-24 14:50:17もしその当時のゲームが全部クソゲーだったとしても、こうした本、思考は、そのクソさを全力で受け取ることが出来たのである。
2012-08-24 14:50:54「クソだから遊ばない、遊ばないから買わない」。かくて、売れないゲーム、というものは市場に残る。しかし、少なからずそうしたゲームを見つけたコアな人が、その「クソさ」を追求して、必死に引っ張り出して、受け取る。
2012-08-24 14:51:37こうしたことが出来ていた時代に於いての「面白きことも無き世を面白く」とは、まだまだポジティブな意義がある。言い換えるならばこうだ、「クソゲーを面白く」。
2012-08-24 14:52:34「クソゲー」という変なゲーム、駄目なゲームをいちいち享受する。面白いゲームが無いなら面白くない駄目ゲー自体を享受して、モノにして、その面白さ、変さ、これはどういうことだ?!を全力で受け止め、「そんなんもあったなー」と享受する、味わう。そういう意味合いが、あの言葉から帰ってくる。
2012-08-24 14:53:36だが、課金制やソーシャルサービスで開催されているゲームが氾濫すると?こうした享受が出来なくなる、やりづらくなるとはさっき言った通りだ。
2012-08-24 14:54:29そういうゲームは、享受可能性が狭い、あるいは不可能、とも言った。これに従うならば、「面白きことも無き世を面白く」すること、それ自体が出来なくなっているのだ、という事すらできる。
2012-08-24 14:55:00さしずめこうなる。「面白きことも無き世を面白くすることもできない世」。「面白きことも無き世を面白くすることもできない世」を、面白く享受することなんて、せいぜい皮肉にすぎない。皮肉、ゴシップを楽しむことしかできなくなるだろう。
2012-08-24 14:56:09そうした危機的状況に、私たちは立たされている、という事である。そういうなかで、これをだますために「面白きことも無き世を面白く」とか言われてしまうと、これは却って腹が立つのである。
2012-08-24 14:56:55さて、そこで、また問題が出てくる。享受者と、提供者ないし創作者との関係に関する、「面白きことも無き世を面白く」への批判的検討だ。
2012-08-24 14:58:11「面白きことも無き世を面白く」とは言う。しかし、クソゲーすら享受できなくなった「面白きことも無き世を面白くできない世」の人たちの創るものを、享受はできない、できえない…そうした状況を、享受出来ないのならば。
2012-08-24 14:59:43