【シューニャリアーナ】「面白きことも無き世を面白く」?【出来るか!】
- L_O_Nihilum
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「おもしろき こともなきよをおもしろく」と言うけれど、脱構築したくて腹立つ一言である。
2012-08-23 17:53:49おもしろきこともなきよ、なんだからおもしろくないんじゃん、面白く出来る、ということ自体が矛盾なのだというところが見える。
2012-08-23 17:54:15この言葉の一般的な用法としては「面白がらせてもらうんじゃなくて面白くしろよ、お前が」的なところだと思う。しかしそれは要するに、貧しい人に向って「お前はぜいたくだな」と言ってるのと同じことになる
2012-08-23 17:55:10全然ぜいたくじゃないどころか貧しくてつらい人にむかって「お前贅沢だな」とかひどすぎるでしょって言われたら反論できるだろうか。
2012-08-23 17:55:34「暇倫」を批判的に捉えるならその点。「暇倫」すなわち「暇と退屈の倫理学」では、贅沢をすること、浪費することというのが1つのテーゼとして提示される。ここでの贅沢とは金銭的な贅沢のことでも浪費のことでもなく、もっともっと広い意味での贅沢だろう。それは解る。
2012-08-23 17:57:05それは分かるけど、それ自体が出来ないような世の中になっている、またはそんな世の中でつまらなく生きることを選ばされている、と自覚していて、そこから”抜け出せない(抜け出そうとしない、のではない)”人や世の中に、「面白きことも無き世を面白く」は少々無理があると思う。
2012-08-23 17:58:19そもそも面白い事だけが世の中ではない。そのことを見落とした状態では「暇倫」は読まないようにしたい。何故なら、「暇倫」は、そうした辛さを覆い隠すために、またそれから逃げ出す人たちのために用意して書かれた書籍ではないからである。
2012-08-23 17:59:55また、「面白くもない世の中」を「面白く」するために、面白くないはずのものを面白い面白いと言い続けるのも妙な話。だれもその面白さには納得してないどころか、その面白さとは本質的なものではないところで盛り上がっていたりする場合に、これを面白いということが出来るのか。
2012-08-23 18:02:16実際本質的には、面白くないはずの作品が、評価だけが高かったためにメディアにも取り上げられ、面白いと言われる。いや、そういう限りは一応、それを買う人たちに指示される意味での面白さは確かにあるんだろう。だが、それ以上のものが無い。
2012-08-23 18:03:18それ以上のものを持っている作品が、それ以上だというのに、それ以上も売れない。これは「売れている=面白い」の図式が成り立っていないことを意味している(あくまでも面白さなんて人それぞれという論点は私にはない)。
2012-08-23 18:04:22@L_O_Nihilum 「面白きこともなき世を」自体が脱構築的な考え方なのでは? そのままでは楽しみようのないものの構造を組み替えることで面白くしよう、という考え方かと。そもそも消費を前提にしていないと思います。横やりになっちゃったらスルー願います。
2012-08-23 18:04:54つまりメディアも目にとめてなかったりで、口コミのクラスタも小さくて、正当な評価がなされていないという事の現れこそが、「売れ≠面白さ」の一番の根拠なのである。
2012-08-23 18:05:10なんでこんな話をしてるかって、そりゃゲームやアニメなどを論評する意味について問いただすためだ。『暇倫』末部にもあるように、好きになる、ものにする、所有、受け取るという事は反省的認識(スピノザ)を及ぼし、考える余地を与える。しかし考えているとき、批判的になっている。
2012-08-23 18:06:37@book_floor ナイス☆横槍。脱構築は二項対立の明証みたいなモンなんで、その側面もあるのです。それを晒しながら喋りたいなと思いつつ、意識すればするほど自分の意見というか、パースペクティブを晒してしまうようですね、僕が。
2012-08-23 18:07:48そう、今こうして返信が来たけれど、確かな話。あの言葉は消費を前提としていない。だが今僕が考えているのは暇倫と同一の立場からの「面白き~」なのである。そのとき、「面白きことも無き」消費社会という危機的状況を、そのまま享受可能か?という問いは依然残る、そういう事である。
2012-08-23 18:09:12”そのままでは愉しみようのない物の構造を組み替えることで面白くしよう”という言い換えはあの言葉の持つ意味あいを綺麗にさらしており、私の理解に誤読だという力は持っている。
2012-08-23 18:09:54だが、そうした組み換え自体に限界なものが出ているという消費社会だったらどうだろう。その組み換え自体が、消費論として回収されているという社会だったばあいに、この組み換えに動的価値の契機が含まれていると言えるのか。そこはまだ私には疑問であった。ていうか、疑問である。
2012-08-23 18:10:58組み替えること、という行動の中に、そうした論評が含まれ、論評の是非の精確さ即ち、洗練された趣味の存在があること、これがあって、初めて「暇倫」のような社会変革は可能であるように思うから、このように考えるのだ。
2012-08-23 18:12:01「暇倫」のような社会変革はこういうものである:消費社会とは定住革命(※)からずっと続いてきた人類の課題の延長、つまり退屈という課題に割り込んできた第二の課題である。だからこれを崩すために、楽しみ、受け取り、ものにすることで考え、そこから社会を変える力を得るだろう、という感じのもの
2012-08-23 18:14:33しかしそこにもあるように、「楽しむことで考えることが出来るようになっていく」という部分が「暇倫」には存在する。
2012-08-23 18:17:29つまり暇倫をよく読むと、「ただ楽しむ」のではないぞというウラが存在するというワケだ。その辺を引用する。
2012-08-23 18:18:20「…楽しむとは思考することにつながるということである。なぜなら、なぜなら、楽しむことも思考することも、どちらも受け取ることであるからだ」(暇と退屈の倫理学、P.352)
2012-08-23 18:19:46Privateという言葉があるでしょう。
あのPrivateは、語源を解体すると、『奪う』という意味になるのです。
プライベート、所有が、奪う、という事であるなら、受け取ること、ものにする、ということは、所有する、つまり得て単なる消費から作品、コンテンツ、その中身や味を「奪」って、自らのものとしてしっかり持っておく事、それを意味するわけです。
僕がこの前「ミクさん可愛い、そこを語れよ」と批評家に向けてっぽく言ったけれど、それもこの意味である。つまり、私たちについて語るなら、私たちと同じ萌えを体感し、そこで可愛いと思ってから、その可愛いについて語れ、という意味である。
2012-08-23 18:20:35