心の傷を癒すということ
- atsushimiyahara
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要するに心の傷つきを見出したとき、それを見過ごさず、また安易に専門家に回さず、どうやって介入し、かかわっていくかという体制をつくることである。そうでなければ、〃心のケア・ブーム〃は徒花となってしまうだろう。 同前
2012-08-18 08:08:32p246 同前
もう二度と、心的外傷を受ける前のもとの自分に戻ることはできない。心的外傷から回復するために、自分は変わらざるを得ない。社会に復帰する前に、そういう新しい自分との折り合いをつけてはじめて、社会への復帰が可能になるのである。 同前
2012-08-18 08:36:31心的外傷から回復した人に、私は一種崇高ななにかを感じる。…そして、回復に向けて懸命に生きる人を、敬意をもって受け入れる社会を作ることも〈心のケア〉の重大な意義ではないかと私は思う。 同前
2012-08-18 10:38:36p247 災害と地域社会
しかし一方、震災の問題は、一精神科医が診察室の中で対処できるレベルをはるかに越えている。個人の中のストレスをどうケアするかといったレベルを超えて、社会全体に加わったストレスを、社会的にどう対処していくかという視点から考える必要があるだろう。 同前
2012-08-18 10:40:54p250 同前
しかし実際には、世話をするものとされるもの、施すものと受けるもの、といった〃タテの関係″の落差を埋めることはむずかしいし、ボランティアが当事者になりきることはできない。それでもボランティアは当事者に歩み寄り、〃ヨコの関係″に近づいていく。このことが重要なことであると思う。 同前
2012-08-18 18:25:08p253 同前
今回、地震で壊れたのはほとんどが古い町だった。そして被害にあったのも老人が多かった。老人は新しい環境への適応能力がひくい。地震によってすっかり生活の基盤を失った老人たちは、とても傷ついていた。 同前
2012-08-18 18:27:26p257 同前
コミュニティに大きな変動が起こるとき、多数派の論理が跋扈し、マィノリティが、排除か同化か、の二者択一を迫られやすい。排除か同化かではなく、マイノリティがそのアイデンティティを保ちながら、地域のコミュニティに属する方向を模索することが大切なのである。 同前
2012-08-18 21:05:20p258 同前
…人間とはいかに傷つきやすいものであるかということを私たちは思い知らされた。今後、日本の社会は、この人間の傷つきやすさをどう受け入れていくのだろうか。傷ついた人が心を癒すことのできる社会を選ぶのか、それとも傷ついた人を切り捨てていくきびしい社会を選ぶのか… 同前
2012-08-18 21:08:43しかし今、被災地は「ハネムーン期」を終えて、「幻滅期」に入っている。 すなわち「被災者の忍耐が限界に達し、援助の遅れや行政の失策への不満が噴出。(……)被災者は自分の生活の再建と個人的な問題の解決に追われるため、地域の連帯や共感が失われる」(ロモ) 続く 同前
2012-08-18 21:15:37続き この「幻滅期」を越えて、私たちは再建へと向かわねばならない。それはく心の傷〉を見て見ないふりをして、我慢して前進することではないだろう。多数派の論理で押しまくり、復興の波に乗れない〃被災の当事者″でありつづけている人たちを忘れ去ることではないはずである。 同前
2012-08-18 21:16:36p259 同前
世界は心的外傷に満ちている。〃心の傷を癒すということ〃は、精神医学や心理学に任せてすむことではない。それは社会のあり方として、今を生きる私たち全員に問われていることなのである。 同前
2012-08-19 20:24:59震災と死別のトラウマ--「子どもと死別した親の会」(さゆり会)から教わったこと
p275 震災と死別のトラウマ
死別に直面した人はさまざまな激しい感情に翻弄される。自分の感情を受け入れることがむずかしいのである。そんななかで、周囲の人が遺族の感情を否定しては何もならないだろう。遺族の感情を認めることが、遺族との心の接点を作ることになるのではないだろうか。 同前
2012-08-18 21:29:03p277 同前
遺族は、死者がどこでどうやって存在しているのかという問いを問わずにはいられないという。悲しみをのりこえて生きるために、宗教的、哲学的な問いが必要なのである。私は、重大なトラウマをこうむった人たちのなかに信仰生活にはいる人がいることを、はじめて納得できるような気がした。 同前
2012-08-18 21:32:30震災から4年目の神戸 --虚無感と希望
p287 現代日本を象徴する神戸