映画・言説・フォーマリズム・イデオロギー
.@Chimaeriformes ようするに、1970年代の言説が形骸化したまま残存しているのだと思います。
2012-08-28 13:43:08@yishioka なるほど、確かに『ロスト・イン・アメリカ』は、刊行当時に結構話題になった気がします(読んだはずだけど、内容忘れた)。すると、『ロスト・イン・アメリカ』的な言説が(好むかどうかは別として)機能する時代背景があったということですよね。それが何であるのかが気になって
2012-08-28 13:45:33.@seiichitsuchiya 黒沢清&青山真治「的言説」の台頭期ということだと思います。私は黒沢清はある種の映画規定から解き放たれるだけで、もっと別の仕事も可能だったのではと考えていますが。
2012-08-28 13:47:23@yishioka うーん、そうかな。同じく「育ちの悪い」人間からしてみれば、「凡庸」を強調しすぎるのも「育ちの良さ」に対する裏返しにしかならないような気がするけど。個人的な心情としては、「育ちの悪さ」に対するコンプレックスがないわけではないですが。
2012-08-28 13:49:40@yishioka でも最近思うのは、あれはけっこうグローバルな傾向で、アメリカの映画研究なんかにも言えることだろうなーと思う。なんというか、映画って(なんらか理念の)メタファーだったんでしょうね。
2012-08-28 13:50:27@seiichitsuchiya 映画を数こなしても「シネフィル」にはなれないんですね。ある種の自称フォーマリストと一緒で、「何を排除するのか」が決定的なのです。この場合の「育ち」は「魂の貴族主義」のような、私がどうかと思うディスクールになります
2012-08-28 13:51:01@yishioka でも、それってまだ、有力な言説として残存しているのですか? その「的言説」が存在していたことは了解してますが、今は相対的にフラットになっている印象。
2012-08-28 13:52:36.@Chimaeriformes 全くシネフィルとは言い難い私なのですが、近年のカヴェル礼賛傾向に対して、「あんな趣味は云々」みたいな裁断批評する人が少ないのが逆に気になるのですね。内的基準だけで論者を裁くのならば、カヴェルの「愚直なモラリズム」も嘲笑されそうなのではと思ったり
2012-08-28 13:53:03.@seiichitsuchiya ある言説は、それが広く流通していた時期から半世紀ぐらいは残存するのではないでしょうか。10-20代でインストールされ、そのまま老年を迎える人が案外多いと思うので
2012-08-28 13:54:23@yishioka 単にあまり読まれてないんだと思いますよ。理論というにはあまりにアナクロだし。個人的にはカヴェルに関してはモラリズムと言うよりこのアメリカニズムが問題かなと思っています。アメリカでのカヴェル礼賛の根っこにあるのはこのアメリカ的エートスへの回帰なんじゃないかしら。
2012-08-28 13:56:39@yishioka それは嫌ですね。ただ、10-20代ぐらいでインストールされた人は、そのまま老年というか、批評ではなく研究者としてやっていくというのが主流なのでは。しかし、この話を続けると、その筋の世界の、余所者においては知らなくてもいい闇に触れてしまいそうな予感がw。
2012-08-28 13:59:21@seiichitsuchiya なにしろこの程度の言明すら差し控えていたぐらいですからねwもう諦めましたよw
2012-08-28 13:59:54@yishioka 排除の手続きがイデオロギーとして機能すると、例えば「シネフィル」になるということですね。しかし、そのイデオロギーの選択の元になる「育ち」は、所与のものではなく、事後的に捏造されたものかもしれませんよ。
2012-08-28 14:02:21@Chimaeriformes とりあえずオーソリティらしいから「対応」するか的な発想の人が多いのかなと思っています。
2012-08-28 14:07:39@yishioka 「対応」しようにもよくわからんってところなんじゃないですかね。あのあからさまなロマン主義と、彼のオートマティズム理解がどうつながっているのかは検証しないとなーと思ってます。
2012-08-28 14:10:49@Chimaeriformes といいつつ私自身は彼の「なんでもメディウム論」には射程があると思っています。明らかにマイケル・フリードよりはオープンなのですね。彼のモラリズムは1930-50年代ハリウッド映画における男女関係への固執がコアだと思っているのでそこは歴史化。
2012-08-28 14:12:25@yishioka 僕は逆に「1930-50年代ハリウッド映画における男女関係への固執」に複製技術論の身体論的延長を見て取れるように思いましたwキャラの複製可能性というか。で、ポロックのオートマティズムと映画のオートマティズムが交換可能になってしまう構図は、ちょっと留保w
2012-08-28 14:15:00@Chimaeriformes あのへんはそれこそ60年代のカヴェルが、「若い友人」としてもっぱらフリードから美術を学んだのが原因でしょうw
2012-08-28 14:17:01@yishioka そうでしょうねwただ、ロマン主義にも自動性の主題ある(想像力や身体が自走しだす的な)って話もあるので、カヴェルの元々の射程と共振した可能性もあるかも。やっぱりカヴェルは厄介ですよw
2012-08-28 14:19:20フォーマリストであれば村上隆氏の作品は評価すべき対象であるはずなのに(『芸術闘争論』の画面の構造の話など、美大の教科書にもなり得る)、一般にdisの対象になるというのは、「スクール」の選択の問題だからということか。それは「カースト」というよりも、ルサンチマン込みの単なる棲み分け。
2012-08-28 14:24:54@seiichitsuchiya 私が今なおシネフィルクライテリアを学び続けている(つもりな)のも、もっぱら「可能な介入ポイントを探る」ためといえます。
2012-08-28 14:28:02