映画・言説・フォーマリズム・イデオロギー

土屋誠一さん/石岡良治さん/篠儀直子さん/@Chimaeriformesさんによる対話。
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Yoshiharu ISHIOKA @yishioka

日本における『モダニズムのハードコア』受容が、「フォーマリズムの脱構築」のはずが「フォーマリズムの権威の導入」になってしまった事情(編者や読者の欲望もあったはず)を解きほぐす必要があるのだろうと思います。

2012-08-28 14:29:19
Yoshiharu ISHIOKA @yishioka

この点に対する一つの立脚点として、October派20世紀美術史の"Art since 1900"の、イヴ=アラン・ボワによる序がヒントになるように思います。私的にはフォーマリズムの生産的な読解として。(続

2012-08-28 14:32:25
Yoshiharu ISHIOKA @yishioka

「フォーマリズムをモルフォロジーとしてでなく徹底した構造分析として読むこと」「その結果、フォーマリズムは作品外的なコンテクストを排除するのではなく、最終的に歴史分析に合流する可能性をみること」。日本ではもっぱら趣味的な「かたち」フェチになっていて、「文脈とかしね」という退行に。

2012-08-28 14:33:52
Yoshiharu ISHIOKA @yishioka

映画その他でもほぼ同様のことが言えるはずでしょう。20世紀芸術および芸術論は、豊かな成果を生んだがゆえに、「反時代性」という万能なクライテリアを用いることでかえってその豊かさを幽閉しているようにみえる。

2012-08-28 14:36:33
土屋誠一 @seiichitsuchiya

フォーマリズムは「技術」としてはまだまだ使用できる。それがイデオロギーとして機能した途端、「技術」は二次的な問題になる。ただし、「ユーザーズ・ガイド」は容易に(かつ無意識的に)イデオロギーに転化し得るということが一番の罠だろう。

2012-08-28 14:37:01
土屋誠一 @seiichitsuchiya

一方、棲み分けを忌避してニュートラルな立場がありえると幻想するのも、危険ではある。その都度暫定的にではあれ、立場は選択せざるを得ない。

2012-08-28 14:39:51
Yoshiharu ISHIOKA @yishioka

「任意の対象」(どんなところからでも)を出発点に「大きな構造」を語ることが可能だと考える。ある種の相対主義の遺産。ただし、そこから出てくる射程の広がり、大構造にたどりつく経路の「受容可能性」などに大きな差が生まれる。よって「〜はくだらない」は、発話した瞬間に話者が試される。

2012-08-28 14:47:42
Yoshiharu ISHIOKA @yishioka

先ほどのフォーマリズムツイートを読みなおして重大な訂正を要すると思った部分。「退行」言説は、「アドヴァンス」をよしとするはずの「かたち」好きの人が駆使している割に、彼らが図らずも「撞着」に陥っていることを示唆したつもりが、これだと私自身もその一員に。こうした厄介さは引受けるほか。

2012-08-28 15:56:35
Yoshiharu ISHIOKA @yishioka

あらゆるコンテクスト(社会反映論etc.)の縛りを脱して、テクスト(作品そのもの)を語るべきだ、という規範が強いる文脈性が問われている。一撃で多くの物事を「白紙還元」できそうであるがゆえに万能の言説。けれども一度「作品至上主義」を経た後の文脈の再導入こそが、真の試練であろう。

2012-08-28 16:06:49