夢のあとに見た夢ノ会
- Hamlet___telmaH
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@ketchup_tomato 御指名どうも有り難う御座います。そういった芸術家気取りの偽善的な人間による相互批判だとか排斥的な動きには、基本的はルサンチマンの様なものがあるのだと思います。結局のところそういった人間のする芸術・表現というものは、ルサンチマンの域を出ないものかと。
2012-09-02 14:55:21@ketchup_tomato その上で我々がアジテーションをするという事でしたら、そういった人間の恐らくは無自覚的な部分を突く様な、それ自体が劇薬的議論(という文章表現なのでしょうね)を行うのではないかなと思います。正直若干お二人について行くのが厳しく思うのですが如何でしょう
2012-09-02 14:59:31確かに理論的になりすぎたようです。ではすこし視点を変え、つぎは 「ダダから見たtwitter」です。
2012-09-02 15:01:55数分前までの議論はとても理論的。しかし本来の姿であるダダイスト を思う存分さらけ出したいと思います。(笑い)大丈夫。この中で最年少は私ですから。
2012-09-02 15:04:58ダダは手っ取り早く云うなら「反芸術・反文化」。 だが言い方を変えると自由・独創だとおもいます。
2012-09-02 15:07:25その点でtwitterでは今後どのような表現ができるでしょうか。原田博士はどのようにお考えですか。
2012-09-02 15:10:28@ketchup_tomato 博士ではないので勘弁してください。他のSNSで、友だちが見れる日記を売りにしたところがありましたが、twitterはそういう内向けのメディアと違って、外に向けてメッセージを発信するのには適しています。DADA的な言葉の弾丸だって発射できます。
2012-09-02 15:19:34@ketchup_tomato 「反文化」ということで、ニーチェを連想します。マルクスは国家が病んでいるので、別の国家を、フロイトは家族が病んでいるので、別の家族を、という発想です。せっかく、国家や家族の外に出たのに、別のところに入れられる。これは文明人の発想です。
2012-09-02 15:23:06@ketchup_tomato そうですね。表層的にダダは反芸術・反文明・反理性的に見えますが、その実態・本質は仰る通りのものだと思います。ダダが本来的姿であると言うのなら、極限までの表現というのもので行き着くところは、究極的には極めて自然なものになると思うのですが如何でしょう。
2012-09-02 15:25:04@ketchup_tomato ニーチェの場合、国家や家族をハンマーで叩き壊す反文化的野蛮人の貌があります。ここに、非常に非情なDADA的なものを感じます。ニーチェのツァラトゥストラは、ツァラのDADAを先取りしているのではないでしょうか。
2012-09-02 15:27:23@ketchup_tomato 銘々、勝手に生きればいいんですよ。議論ではなく、実験的な生を。何かの表象代理ではなく、生きることと表現がひとつになるような実践をすればいいのですよ。
2012-09-02 15:30:56@harapion 確かに。しかしその時代に特化したものですよね。わたしはDADAではなく「テロリズム」のひとつに思えます。
2012-09-02 15:31:12先ほども名前が出ましたがトリスタン・ツァラは「ダダはダダの反対なのである」という言葉を残しました。
2012-09-02 15:32:52つまり、ダダは芸術でも文化でもない。ましてや宗教や思想でもない。はたまた無でもない。なんでもないものなのだ。と思います。 そこから「反」を超えたものがこの言葉から感じられるのですが・・・
2012-09-02 15:36:03@ketchup_tomato ニーチェは、ヒットラーやムッソリーニらの全体主義者に政治利用されましたが、バタイユとクロソウスキーらが政治解釈から奪還し、生の哲学者としてのニーチェを復元してくれました。私は全体主義者でも、スターリン主義者でもありません。
2012-09-02 15:40:21@ketchup_tomato ダダは属性としては「無」であるでしょうし、この世のものと性質を異にするものとして、存在自体が革命的であると思います。先程のダダ宣言からの引用の通り、ダダはそれ自体に反するものとして、単純な二極的構造を超えた純粋に破壊的な存在なのだと思います。
2012-09-02 15:46:06@Strange_Actor それこそ原点であるtwitterでの「つぶやく」と云う表現はある意味「ダダ」にも似たものなのかもしれませんね。
2012-09-02 15:51:55「つぶやく」ことは半分「無意識」なことが多くて、宗教とか思想とかに執りつかれてない「無」を「ダダ」と呼ぶか「つぶやき」と呼ぶかの違いで本質的には似ているのかもしれません。
2012-09-02 15:54:52@ketchup_tomato たくさんの「つぶやき」からなるTLはコラージュ的な作品にも見えますね。人の無意識の積み重なりは「無秩序」や「混沌」の様相を示してるとも言えるかもしれません。
2012-09-02 15:59:13