暗落亭苦来の怪談噺「猿の眼」(原作:岡本綺堂)
ございますんで。何卒何卒」とまるで同人誌売りのようなことを言いながらしつこく薦めて参ります。父も根負けして「分かった分かった。では見るだけ見るが、物はなんだい」と尋ねますと、孝平は「これはさる御旗本の家から出たものでございまして、箱書には大野出目の作とございます。
2012-09-01 22:03:49出処が確かでございますので品はお堅いと存じますが・・・」と言いながら、その木箱の紐を解いて蓋を取って見せました。
2012-09-01 22:06:18父とわたくしはその箱の中を見て、ふたり同時に「あっ!!」と叫びました。「え。え?なんでげしょう」と孝平が驚いております。
2012-09-01 22:09:06父はだっと立膝になると青ざめた固い表情で「孝平!おまえこれをどこで手に入れた!どうしてこれをうちに持って来た!!」と恐ろしい声で、ほとんど胸倉を掴まんばかりの勢いで怒鳴りつけました。
2012-09-01 22:13:50無理もありません、その箱の中に入っていたのはあの猿の仮面・・・三年前に井田さんを脅かし、しかも忽然と家から消えてしまったあの猿の面に相違ないのです。それがどうしたわけで又わたくし共の前に姿を現したのでございましょうか。
2012-09-01 22:22:57父に厳しく詰問されて孝平も平伏してようよう白状いたしましたが、その猿の面は孝平が四谷通りの夜店で十五銭だかの安値で買い入れたものだという事でした。大野出目というのは父によれば江戸時代の面打師の家で本物ならばむろん値打ちのあるものですが、十五銭のものを適当な箱をこしらえて
2012-09-01 22:30:31大野出目作でございと売りつけようというのですからずいぶんひどい話です。なのですが、父がだんだん問い質していくうちに、すこし話が変になってまいりました。
2012-09-01 22:35:02孝平がその猿の仮面を買った夜店の主というのが、どうも数年前父がわたくしを連れて最初にその面を買った、あの上野広小路の夜店の士族の男と同一人らしく思われるのです。たしかあの時、あの士族さんの傍らに当時のわたくしと同い年くらいの男の児が一緒に坐っていたのをわたくしは
2012-09-03 20:26:10思い出しました。父が「その士族さんの隣に男の児がいなかったかい」と尋ねると孝平は「男の児でございますか。さて」と暫らく考え込んでおりましたが、はたと膝を打って「そういえば、私がこの面を買いましてその夜店を離れて、一丁ほど歩いてからふっと振り返ってみたらその士族のひとの
2012-09-03 20:31:58隣になんだか小さな男の子が坐っておりましたな。いや値段の掛け合いをしている時はいなかったのでげすが、大方小用でも足していたのでしょう」と答えました。
2012-09-03 20:35:45父はそれを聞いてしばらく考え込んでおりましたが、やがて孝平にこの面を二、三日預からせてはくれないかと言いますと孝平も二つ返事で承知しまして、預り賃というのでもありませんが幾ばくか父から貰ってぺこぺこしながら帰ってゆきました。
2012-09-03 20:40:33その日伏せっていた母は晩には小熱が引いて夕餉には起きだしてきたのですが、父からその面の話を聞くといやな顔をしました。「何だって又そんなものをお引き取りなすったのです」「いや別に引き取ったわけじゃあない。本当に不思議があるかないか試してみるだけの事だ」と父は涼しい顔をして
2012-09-03 20:49:27おりましたが、わたくしは井田さんの亡くなった事などを思い出してしまって気持ちが良くはありませんでした。そして父はその猿の仮面を元に掛けてあったあの四畳半の離れの柱にもう一度掛け置いて、夜中に忍んでいって様子を見ることにいたしまして、いつもどおり八畳の部屋に母と布団を並べて
2012-09-03 20:57:59床に就きました。わたくしはもうその頃は大きくなっておりましたのでその隣の六畳の茶の間で寝むことにしておりました。
2012-09-03 21:00:17・・・その晩は生温かく湿っていて、外は少しの物音もしません。おまえたちは構わず寝てしまえ、と父は言いましたがわたくしは猿の仮面のことが気になって易易とは寝付かれませんでした。その頃家にはもう柱時計がございまして、その時鐘がぼーん、ぼーんと十二回打って真夜中を報せると、
2012-09-04 00:02:43隣の部屋で父がそっと起きだす気配がして、襖がすう、と開けられて又閉じられる音が聞こえます。わたくしは恐い半分好奇心もあって布団に半身を起こして物音に耳を澄ませておりますと、父の足音は廊下から庭に下りて、小砂利を踏んであの離れへと向うようです。
2012-09-04 00:10:23それを聞いてわたくしは竦み上がりましたが、恐いよりも母のことが心配で思わず布団を蹴って隣の部屋の襖を引き開けましたが、暗くて様子が判らない中にただ母の怯えたような激しい息遣いが聞こえます。
2012-09-04 00:20:40慌てて手探りで灯をとぼしますと、驚いたことに母は寝床から半分程も身体を這い出させて畳にうつ伏していて、しかもその丸髷がまるで誰かに引き摺られたように滅茶目茶に乱れているのでございます。
2012-09-04 00:25:46わたくしが恐ろしくなって「おっかさん。おっかさん!どうしたんですよ」と泣き叫びますと、その声に気づいて女中たちが起き出して来、父も急いで離れから戻って来ました。
2012-09-04 00:28:50母は半ば気を失っておりましたが水や薬を飲ませて介抱するうちにようよう活気づきました。父が訳を尋ねると、母は青い顔で「寝ていたら誰かにとつぜん、髷を掴まれたと思ったら引っ張られて・・・」と言うのです。
2012-09-04 00:34:23