【但し】曹操による鄴-邯鄲広域防御コンプレックス攻略から見る地政学【保留】
- jonathanohn
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@Jiraygyo もともとアイデアの元になったネタ本はコレです。「万里の長城 攻防三千年史」来村多加史 (講談社現代新書)
2012-09-13 00:51:50@nisekuro_at 匈奴に備えた北の趙長城は、後に万里の長城と連結されたりして有名なんだが、邯鄲より南の長城についてはどの辺からきたんだろ????
2012-09-13 00:54:00@Jiraygyo 「万里の長城 攻防三千年史」によると、趙の敬侯の時代に晋陽から邯鄲に遷都したものの、列強の反発を受けて守勢に回らざるを得なくなって、国防の面から粛侯の十七年に造られたものだそうです。
2012-09-13 01:04:10@nisekuro_at 史記の趙成家には、確かに十七年に長城を築いたとあるけど、前年に大陵と鹿門を視察しているし、この長城は普通に北辺の長城の造営だと思う。
2012-09-13 01:18:50@Jiraygyo 史記もそうですけど春秋三伝にまで及ぶともう俺には手に負えないので、どの根拠から趙の粛侯十七年に築いた長城が邯鄲南の長城だと判断されるのかさっぱりです。
2012-09-13 01:25:56@nisekuro_at あと趙世家では守勢どころか、粛侯の十七年は魏を攻めて失敗した年と書かれているので、これについては完全に読み違いとしか思えない。なにか遺構か遺跡とかの話ないと史記の記述からは否定せざるをえない。
2012-09-13 01:26:06@nisekuro_at 普通に誤読だと思う。前年に北辺の有名な長城の視察して、その不備が見つかったので長城の追加建設をしたと読むのが自然だし。
2012-09-13 01:27:12@Jiraygyo ただ、魏との国境にあたるんですよね。その辺り。だから好戦的で強大な魏に対する恐れから築いたのかもしれないです。
2012-09-13 01:27:53@nisekuro_at けど、この年は魏に対して攻勢に出ている、ちょうどその年なので、いくらなんでも理屈に合わなすぎると思う。根拠としては無理すぎるし、自然に北方の長城の補修であったと考えるべきかなと。前年に地名も挙げて北方視察しているし。
2012-09-13 01:30:44@Jiraygyo あいや、俺が言いたかったのは邯鄲遷都から問題の粛侯十七年までの間に、魏に備える必要があって作った時期があったんじゃないかという。趙の敬侯の即位した年から追って探っていけば分るかも。
2012-09-13 01:34:55@nisekuro_at あー、悪いが、その流れも把握済み。粛侯の代に馬陵の戦いがあって魏が孫臏にボコられて衰微しとる。そして長城建設は、その後。むしろ趙が弱ってる魏を叩いている時期だよ。
2012-09-13 01:37:41@nisekuro_at http://t.co/OPJ5HP5o この年表がわかりやすいけど、B.C.333の長城建設前後は魏が諸国からフルボッコです。
2012-09-13 01:38:39@nisekuro_at ちょっと魏に備えた長城建設をするような時期じゃないな、これ。どう考えても、流れからいってありえん。そんぐらい魏がフルボッコされてる時期だ。
2012-09-13 01:40:20@nisekuro_at 今回の邯鄲コンプレックスについては、私的にも非常に魅力的だったんだが、その中核となるギョウ周辺の長城についての根拠が薄すぎるので、残念だが保留だなあ。 「万里の長城 攻防三千年史」については普通に史記の誤読だと思う。
2012-09-13 01:44:29@nisekuro_at 今回非常に面白かったんだけどな。長城はないという設定でもう一度考察してみてはどうだろうか? 長城については今の段階ではないと考えたほうが無難やろし。
2012-09-13 01:55:18@Jiraygyo ただ簡単南の長城については他に中国語サイトの歴史地図にも載ってまして。まあ根拠は洗い出さないとならんですが。
2012-09-13 01:55:28@nisekuro_at でも曹操や袁尚戦略とか苦戦ぶりはほぼそのまま使えると思うし。逆に想定よりは固くなかったことでの、曹操の邯鄲周辺の制圧の速さの根拠に逆になったのかもしれない。
2012-09-13 02:06:01@nisekuro_at おつかれ様でした。南陽の時と同じく長城遺構に目をつけられたのは興味深い視点だったと思います。僕は単に「正攻法での鄴攻略が困難だから、鄴を裸城にすべく支城網から潰した」ぐらいに思っていました。支城を失った城塞は脆いですからね
2012-09-13 03:04:45