対話の記録

ひたすら自分の考えを深めるために。
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いのうえひろゆき @gushou

@naocofr 私が「余分なもの」を霊と呼ぶのは、ここには善き信頼のおけるものも、悪しき信頼出来ないものもあるからです。「蓋」は信頼できない悪霊であり、悪霊か否かを判別するのは、魂の作動による直観に頼るしかない。直観力という観点からは、魂は信頼できるものです。

2012-09-18 08:08:09
フランツ奈緒子 @naocofr

「教義」についてだけ今思うことを。続)@gushou 先んずる導き手、すなわち「教義」ですね。「信仰」というときには、「教義」が暗黙の前提になっているのは確かだと思います。日本人はなかなか「教義」を信頼できない。... 私は日本人の宗教感覚は、教義なき信仰だと考えているのです。

2012-09-18 17:34:47
フランツ奈緒子 @naocofr

ジョン・レノンがこんな風に言いました。https://t.co/iVJvFlNa 「教義」はあくまでも後に続いた人が整えた形であって、先んずる導き手が教えようとしたことからは離れてしまっている可能性もあるのではないか、と感じたりします。

2012-09-18 17:36:05
フランツ奈緒子 @naocofr

@gushou つまり私が既存の宗教、あるいは信仰という言葉に馴染めないのは、何かその「教義」というものについて胡散臭いと感じている、ということに起因するのか、と。どうやら私は「先んずる導き手 ≠ 教義」と感じている。

2012-09-18 17:48:28
いのうえひろゆき @gushou

@naocofr キリスト教は、「パウロ教」というべき部分が大きいですよね。

2012-09-19 05:03:56
いのうえひろゆき @gushou

@naocofr 「教義」をひとつの「古典」だと考えてみると。古典とは、先んずる導き手が記したもの。そう認識されるから、様々な解釈が生まれるんですよね。例えば論語のように。そしてその解釈は、しばしば導き手が示そうとしたことから乖離してしまう。ジョン・レノンにならって言うと ⇒

2012-09-19 05:08:52
いのうえひろゆき @gushou

@naocofr ⇒ 「孔子は偉大だったが、弟子たちはバカだった」ということは、間違いなくあったわけです。でも、導き手に信頼をおいて、私の言い方なら贈与だと受けとめて、その言葉を自らの中に取り込んで自己対話を為していけば、学習と創発が生じて、新たな「知」が立ち上がる。⇒

2012-09-19 05:13:18
いのうえひろゆき @gushou

@naocofr ⇒ 安冨先生の『生きるための論語』は、そのようにして生まれ出てきたものでしょう。ところが「古典」を「教義」だとしてしまうと、そうした学習と創発を阻む動きが生じる。その解釈は誤った異端だとして、排除する動きが生じる。排除と分裂がキリスト教の歴史だと言ってもいい ⇒

2012-09-19 05:17:16
いのうえひろゆき @gushou

@naocofr ⇒ イエスに続いた弟子たちはバカだったかもしれないが、それでも、積み重ねた歴史の重みというのはあると思うし、そこには大きく深い「知」があると思います。それを「古典」として接するなら、得られるものは多いでしょう。けれど、その同じものを「教義」だと ⇒

2012-09-19 05:20:17
いのうえひろゆき @gushou

@naocofr ⇒ 「教義」だと言われてしまうと、ダメなんですね。大きな壁を感じてしまう。いっそのこと、「方便」だとした方が、少なくとも私には、腑に落ちる。方便だからといって、価値はまったく減ずることはない。方便から学習を開始することができる魂への「信仰」を感じたりする。⇒

2012-09-19 05:26:03
いのうえひろゆき @gushou

@naocofr ⇒ しかし、逆に、教義を方便だとしてしまうと、そちらの方を胡散臭く感じてしまう感性の在り方もあるでしょう。こうした感性に支えられているのが、一神教的な宗教観なのだろうと思うのです。すなわち、「信仰」と「教義」とは一体。

2012-09-19 05:31:35
いのうえひろゆき @gushou

今日は雨で仕事は休み。少し前から読み始めた『苦海浄土』の読書を進めようと思うけれど、『マタイ受難曲』も聴き直してみるかな。奈緒子さんとの「対話」でそんな気分になった。

2012-09-19 05:39:02
フランツ奈緒子 @naocofr

@gushou 私の拙い対話への挑戦を受けとめて下さって有難うございます。《マタイ受難曲。『他』の人の教義を削いで聴けば『マイ(私自身の)受難曲』。》晴耕雨読の生活、素敵です。

2012-09-19 09:06:46
いのうえひろゆき @gushou

@naocofr マイ(私自身の)受難曲! その感じ方、共感します。受難の物語をあくまで自分のものとして受け止める心。聖書の記述より、そうした一人一人の心と魂をこそ、信頼に値する。すなわち、信仰の対象とすることができる。「人類に対する信仰」です。

2012-09-19 12:07:19
フランツ奈緒子 @naocofr

『教義≒古典≒方便』、よく解りました。教義を自分の魂に照らし合わせて学習する回路を断っている様子に、私は何か反発を覚えるのかも。@gushou 「教義」をひとつの「古典」だと考えてみると。古典とは、先んずる導き手が記したもの。そう認識されるから、様々な解釈が生まれるんですよね。

2012-09-19 16:19:56
フランツ奈緒子 @naocofr

@gushou 私の思っている「信頼」は愚樵さんの仰る「信仰」の感触にきっと近い。そこで気になるのが @minoridrums さんの言葉→https://t.co/dqQMdyIh 「信仰」という言葉に、他人の地平を崇めちゃうような意味を私は感じていて、それが何か許せない。

2012-09-19 16:28:53
池永 農 @minoriikenaga

相手の頼れる部分を信じるのは信頼、相手の用いったものを信じるのが信用、相手の仰ったことを信じるのが信仰。

2012-09-18 17:44:16
いのうえひろゆき @gushou

とてもいい「対話」になりましたね。それぞれの用いる言葉の意味するところにまで迫ることができたのは、対話が上手くいったということ。対話相手への信頼がないと、なかなかここには届きません。 @naocofr: 私の思っている「信頼」は愚樵さんの仰る「信仰」の感触にきっと近い。

2012-09-19 17:46:04
いのうえひろゆき @gushou

あくまで私個人の意見として。私は、「信仰」という言葉そのものが、貶められたと考えています。 (続く)  @naocofr: 気になるのが @minoridrums さんの言葉→http://t.co/OR95sPvz

2012-09-19 17:47:57
いのうえひろゆき @gushou

@naocofr @minoridrums (続き) 別の例を挙げますと、例えば「百姓」という言葉。これはもともと「百の仕事をする人たち」という意味の、尊敬語でした。「お百姓さん」と昔は言ったものです。ところが現代では、「百姓」は侮蔑語に貶められている。 (続く)

2012-09-19 17:50:17
いのうえひろゆき @gushou

@naocofr @minoridrums そのようなことが、「信仰」「信心」にもあったのだと思っています。「信仰」が“別の地平を崇める”ということを意味するのは、今も昔も変わらないでしょう。けれど、この「別」は「他人」ではなかった。「別次元=彼岸」だったはずです。(続く

2012-09-19 17:52:59
いのうえひろゆき @gushou

@naocofr @minoridrums それが、同次元の存在である「他人」に貶められた。その原因は、近代になって、社会が「人間化」してしまったからでしょう。近代以前の社会には、別次元の此岸と彼岸とが同居していた。「聖なるもの」を感得する能力が人間には備わっていた。(続く)

2012-09-19 17:55:35
いのうえひろゆき @gushou

@naocofr @minoridrums 魂と呼ばれるべきものに、「信仰」の言葉を用いることは、魂が別次元であるということを示す効果があると私は考えています。我々ひとり一人が抱えている、別次元の神秘。わかったふうに語ることが冒涜なってしまうような、「語りえぬもの」。

2012-09-19 18:01:25
池永 農 @minoriikenaga

@naocofr この場合、信仰をどの程度の位置に持ってくるかがポイントだと思います。僕の感覚では「信頼→信用→信仰→信奉→盲信」と自身の在り方を相手へ委ねる度合いが増えるイメージです。

2012-09-19 18:29:27
フランツ奈緒子 @naocofr

「信仰」のご解説、とてもとても興味深いです。目から鱗が落ちると同時に、深く納得してもいます。(続)"@gushou: あくまで私個人の意見として。私は、「信仰」という言葉そのものが、貶められたと考えています。" @gushou @minoridrums

2012-09-20 16:39:36
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