玉田兵吾の詩、 「私の好きなこと」 http://t.co/ohoLcu6Y を読んで、ちょっと辛くなったので作ってみた。⇒ 「贈与」 (続く
2012-09-18 05:46:13続き) 楽しいはずのことを信頼をもって他人(ひと)から受け取ろう/楽しいはずのことは希望/希望をもって学習の扉を開こう/自分自身を愛することが出来てさえいれば/あとは待つことを憶えればよい/ (続く
2012-09-18 05:48:17続き) 私たちの魂が暗黙の次元から立ち上げてくる/知の訪れを待とう/楽しいことは知の訪れから始まる/楽しいことは謹みをもって他人に贈ろう/楽しいことを信頼をもって受け取ってもらえるのは楽しいこと (終)
2012-09-18 05:48:42@gushou なるほど。確かに辛くも読めますね。でも私の第一印象はワクワクに近い感じでした。そこに何とか気づければ、そこから抜け出すワクワクがある、という感じに。
2012-09-18 05:47:56@gushou 私は人類を信頼しています。キザに聞こえるかも知れませんが、本当です。俗に言う性善説みたいなモノを信じています。安冨先生の著書に出会い、その思いを強くしています。
2012-09-18 05:57:47たとえば、私にとって、マイケル・ジャクソンは未だ「楽しいはずのこと」だ。ベートーヴェンほどにM・Jを楽しむことはできない。けれど、だからこそ、M・Jは私の希望である。この希望は、M・Jを楽しむことを知っている人物から、贈与されたもの。私が勝手に贈与だと思って受け取っているだけだが
2012-09-18 05:58:37@gushou MJとベートーベンとの比較は非常に興味深い!二人とも自己の魂の蓋と激しく抗いながらもそこに自分を昇華させる才能を持ち合わせ、その才能を自覚する感覚も持ち合わせ、だからこそ苦悩の人生を送った人。二人の違いは生きた時代、それを反映した音楽スタイルのみ、と感じます。
2012-09-18 06:10:32同感ですが、人類に関しては「信仰」と言いたいです。 RT @naocofr: @gushou 私は人類を信頼しています。キザに聞こえるかも知れませんが、本当です。俗に言う性善説みたいなモノを信じています。安冨先生の著書に出会い、その思いを強くしています。
2012-09-18 06:01:46@naocofr 「人類」といったとき、信頼の対象は、その「魂」というべきものになるからです。そして「魂」が対象になるならば、そうした神秘的な「何か」の存在そのものを含めることになる。そうなれば、言葉は「信仰」がふさわしいのではないか、と。
2012-09-18 06:18:32@gushou 仰る感触よく解ります。しかし魂は神秘的ではもはやなく、実存なのだと思うのです。魂に素直に生きる人は魂そのものとは言えないでしょうか?
2012-09-18 06:32:46@naocofr 魂の作動の在り方は神秘というしかないものですが、魂そのものを実存とするのは賛成です。その、実存だと断言できるそのことを指して「信仰」と私は言うわけですが、 ここらは言葉の使い方の相違でしょう。
2012-09-18 06:52:35@naocofr 魂に素直な者は魂そのものか。残念ながら、そうは言えないと思っています。だからこそ、煩悩といったものが生じる。希望も絶望も煩悩。魂に素直に生きることができたときの、「生きる悦び」ですら、人間にとっては煩悩なのかもしれません。
2012-09-18 06:58:34@naocofr 人間は魂ならざる余分な部分を、どうしても抱えてしまう存在。この余分なところを私は「霊」と呼びますが、これまた、実存として捉えるところから出発すべきだと考えています。
2012-09-18 07:02:35@naocofr 余分な霊を治めることが魂の平安への道。そして、霊を治めるには、他者の助けがどうしても必要です。それゆえにこそ人間は人間であり、「依存できてこそ自立」という矛盾した命題も、そこから導き出される。
2012-09-18 07:07:27@gushou 霊、あるいは煩悩を含めて、魂とは呼べないのでしょうか。いや、ちょっと頭デッカチでわからなくなってきました。クリアな時に感覚に照らし合わせてみたい問題です。
2012-09-18 07:12:45その感覚は現代日本人の一般的なものでしょう。そう思うので、私は敢えて「信仰」という言葉を用いているところもあります。 RT @naocofr: ん、なるほど。信仰という言葉自体を私はあまり信頼できないのかも知れません。
2012-09-18 07:10:40@gushou 信仰という言葉には距離を感じるのです。私はいわゆる先んずる導き手に依る宗教に対する信仰を持ちませんが、私の感知する神といったような存在には信頼を置いています。
2012-09-18 07:19:08@naocofr 先んずる導き手、すなわち「教義」ですね。「信仰」というときには、「教義」が暗黙の前提になっているのは確かだと思います。ところが日本人はなかなか「教義」を信頼できない。だから無信仰・無宗教ということになる。私は日本人の宗教感覚は、教義なき信仰だと考えているのです。
2012-09-18 07:54:15@naocofr 霊も煩悩も魂の作動から生まれるものですから、可能だと思います。これは何をどう呼び、どう整理するか、仮説をどう組み立てるかの問題でしかありません。
2012-09-18 07:56:43@naocofr しかし、「余分なもの」も魂に含め、そして魂を信頼あるいは信仰すると言ってしまうと、言説に矛盾が生じます。魂の脱植民地化理論における「蓋」も元を質せば魂の作動から生まれたものですが、やはり「余分なもの」であり、信頼をおいてはならないものです。
2012-09-18 08:02:10