山本七平botまとめ/日本人がいまだに患っている厄介な日本病「純粋信仰」

山本七平・岸田秀の対談集『日本人と「日本病」について』より抜粋引用
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山本七平bot @yamamoto7hei

1】【山本七平:以下[山本]】前略~ま、ここで信仰箇条ふうに症例を挙げるとすれば、社会ハ悪、我ハ善ナリ。そして、純粋ヲ尊ブベシ。(笑)特にこの純粋信仰というやつ、じつに興味深いですね。<岸田秀との対談集『日本人と「日本病」について』

2012-09-26 21:57:45
山本七平bot @yamamoto7hei

2】【岸田秀:以下[岸田]】特に動機が純粋であれば人を殺してもいいという、あの……。 【山本】動機純粋論ですね。 【岸田】あの思想の系譜はどこから来たのか。 【山本】それはもちろん戦前から、いや徳川時代からありましたね。尊皇思想以来です。

2012-09-26 22:28:08
山本七平bot @yamamoto7hei

3】【山本】天皇の絶対と個人の規範だけが絶対化されれば、その人間が純粋に天皇を思い、規範においても純粋であればそれでよいことになります。五・一五事件の弁護論は全てその発想に基づく動機純粋論でしたよ。

2012-09-26 22:57:46
山本七平bot @yamamoto7hei

4】【山本】弁護を担当した菅原という弁護士が…知り合いだったんですが、要するに弁護の方法は一つしかない、動機が純粋であった、だから褌まで替えていったと押してゆけばそれでよいのだという。そうすれば世論が味方をしてくれる。事実、助命嘆願書の集まり方はものすごかったもの。

2012-09-26 23:28:07
山本七平bot @yamamoto7hei

5】【山本】白昼、時の総理大臣を射殺するというのは大変な事件だったわけですが、簡単にいうと、犬養さんのほうが不純だとされたわけです。純粋な将校と不純な大臣では、不純のほうが悪い。弁護人はそこをわきまえて集中的に演説をぶつ。すると、たちまち法も何もなくなってしまう。

2012-09-26 23:57:47
山本七平bot @yamamoto7hei

6】【岸田】無力な一人の老人を元気のいい若い者が大勢で取り囲んでなぶり殺しにしたという事実が、動機が純粋であったという事で吹っ飛んじゃうんですね。こういう事は戦後も変らないですね。この前の大学紛争の時も…「不純な」老教授を「純真な」学生たちが取り囲んで吊るしあげたわけです。

2012-09-27 00:27:54
山本七平bot @yamamoto7hei

7】【岸田】そういう純粋人間の元祖にして代表格を探すとなると、吉田松陰(1830~1859、長州藩士、幕末の志士)ですね。 【山本】そうですね。戦国時代にはまだ純粋な人間なんていませんから、やはり動機純粋論というものも朱子学の影響を受けているにちがいない。

2012-09-27 00:57:45
山本七平bot @yamamoto7hei

8】【山本】元来朱子学は一つの組織哲学だったはずですが、日本に来ると例の「断章取義」で、一に純粋だけでよくなってしまったんですな。そもそも儒教にはちゃんとした原則があって、たとえば組織に対する態度と、血縁に対する態度とを分けていたんですよ。

2012-09-27 01:28:02
山本七平bot @yamamoto7hei

9】【山本】組織の方は、いわゆる″三度諌めて聞かざれば即ち去る″ですから、皇帝に対して三度諌めても受け容れられなければ、退席して去ってしまってよかったんです。父親のほうはそうはいかない。″三度諌めて聞かざれば号泣してもこれに従う″。そうしなければ血縁原則は維持できなかった訳です。

2012-09-27 01:57:42
山本七平bot @yamamoto7hei

10】【山本】韓国に「五賊」というのがありましてね。日韓保護条約を受諾すべきか否かを決めるときに、皇帝を七人の大臣が囲んで賛否をとった。五人が受諾賛成で、つまり五賊と後世呼ばれるようになる。二人は三度諌めて容れられなかったから席を立っちゃったんです。

2012-09-27 02:27:52
山本七平bot @yamamoto7hei

11】【山本】私が洪中将の取材のとき韓国で会った李賞讃さんという人の祖父ぐらいに当たる方が、この即ち去った二人のうちの一人だったわけですね。彼は、日本のポツダム宣言受諾の模様を評していわく「御前会議で阿南陸相一人が反対したとしても、最後には全員一致で受諾がきまってる。(続

2012-09-27 02:57:44
山本七平bot @yamamoto7hei

12】続>聞かざれば即ち去っていないわけで、この点は韓国と全く違いますね」と。日本は「忠孝一致」ですから「孝」の原則が「忠」のほうにくっついてしまうんです。儒教の影響を受けたとぱいっても、組織の原則については、まるで受容していません。 【岸田】確かにそうですね。

2012-09-27 03:27:54
山本七平bot @yamamoto7hei

13】【山本】そこで日本人の純粋さの根源に何かあるか、ですが、これはやはあり擬制の血縁に対する徹底的な奉仕から来ているようですね。三度諌めた後で去ってしまうのは不純である。あくまで無私であり、自己否定でなくてはならない。

2012-09-27 03:57:43
山本七平bot @yamamoto7hei

14】【岸田】つまり無私とは自我を捨てること。自我の何らかの利益のために行動すれば不純になりますものね。

2012-09-27 04:27:56
山本七平bot @yamamoto7hei

15】【山本】ただ、吉田松陰の場合を考えると、彼は山鹿素行の系統で『中朝事実』派で、日本こそ中国なりと考えた宗派に属しますが、彼の忠誠の対象が何であったのか、そこがはっきりしない。

2012-09-27 04:57:45
山本七平bot @yamamoto7hei

16】【山本】天皇か、主君か、藩というものか。むしろ彼の場合は非常に抽象的なものに対する忠誠、擬似宗教的というのか、神への忠誠、思想への忠誠に近いものがあるんですね。

2012-09-27 05:27:59
山本七平bot @yamamoto7hei

17】【山本】…尊皇思想も一つのイデオロギーである以上、血縁関係を超えて押し出される面もある訳で…珍しいタイプには違いないが、明治という時代にはなかった訳じゃない。だから欧米人からは明治の人の方が尊敬されるんですよ。形は違っても自分の国はこうだという思想を持っていた訳ですから。

2012-09-27 05:57:41
山本七平bot @yamamoto7hei

18】【山本】松蔭、松陰と騒がれる時代は…この思想、擬似思想が…失われつつある時代だといってもいいでしょう。一つの郷愁なんです。松陰の思想をつきつめれば、どうしても天皇が幕府の手で牢獄に繫がれているという発想になる。それを解放しようというからには幕府から弾圧を受けて当然ですよね。

2012-09-27 06:27:53
山本七平bot @yamamoto7hei

19】【山本】ところが、先ほども申しましたが、天皇制をつくろうという思想は、天皇制ができてしまうとむしろ障害になる面もある。それが体制というものですから。だからこそ、二・二六の時になって天皇が牢獄に入っているという理論が息を吹きかえすんです。

2012-09-27 06:57:45
山本七平bot @yamamoto7hei

20】【山本】磯部浅一達の考えた事は、維新の志士を純粋なものとみて、彼らに対して自分達が感情移入を行い、同じように純粋に行動すれば昭和維新ができる、こういう考え方ですよ。…大正時代というのは機関説でやってきた時代なんです。「君臨すれども統治せず」の原則がほぼ出来上った時代。

2012-09-27 07:27:58
山本七平bot @yamamoto7hei

21】【山本】ところが昭和三年、これも一つの外圧にはちがいないが、金融恐慌で日本経済が破綻をきたすと、どうしたらいいかわからない混迷の空気がにわかに濃くなってくる。どこかが間違っているという意識とともに、それを正すイデオロギーとして尊皇思想がまた引っぱり出されてくるわけです。

2012-09-27 07:57:42
山本七平bot @yamamoto7hei

22】【山本】もともと尊皇思想家には明確なプランがあったと思うんですよ。ところが、昭和六年の満洲事変から二十年の終戦まで、それではいかなる基本思想があったのかというと、何もない。というのは、明治は体制ができてしまうと、すぐに浅見絅斎のような思想を消してしまった。

2012-09-27 08:28:09
山本七平bot @yamamoto7hei

23】【山本】消せばよいというのは戦後に教科書にスミを塗らせたのと同じ発想ですが、スミを塗れば思想が消えると思っている幼稚性は、もうどうにもならないですな。そのため、その思想に基づく規範が、その理由が不明なまま残って呪縛のようになってしまう。

2012-09-27 08:57:45
山本七平bot @yamamoto7hei

24】【山本】そのため、そこにあるのは純粋さを継承しているという意識だけだった。北一輝の『日本改造法案大綱』など、ごった煮の最たるものでしてね、雑炊なんです。雑炊からは現実に機能する理論は生まれませんものね。

2012-09-27 09:28:03
山本七平bot @yamamoto7hei

25】【山本】ですから、明治以来、尊皇思想を一個の思想的系譜として分析し、再把握し、その上でこれを止揚した形跡はまったくないといってもいい。楠木正成は出てきても、誰が彼を最初に評価したのかという系譜は消えてしまう。

2012-09-27 09:57:47