〔AR〕その13
『……ということがありました。Rさんはどう思われますか?』 「――なるほど、デリカシーのないってこういうことなのね。それはAさんが怒るのも無理ないわ」
2012-09-28 21:31:33深夜――日の射さない地底において、多くの住人が寝静まるような時間を意味する――さとりは自室の机で、ロウソクを読書灯にして、手紙を読んでいた。つい先日送られてきた、『Initial A』の手紙である。
2012-09-28 21:33:27つい数日前の話だが、地霊殿のバイオネット端末は、こいし、空、お燐の異議申し立てにより、さとりの占有状態がなし崩し的に解消されてしまった。バイオネット端末は協議の末、さとりの部屋のドアの前に設置することとなり、さとりは以前ほど集中的に扱えなくなってしまった。
2012-09-28 21:37:29物理的な距離はさして変わってはいないが、部屋の中と外では周囲に払わなければならない注意力がまるで違う。今まで、小説を投稿する際の時間的拘束を部屋の中という聖域によってカバーしていたさとりにとってはかなりの痛手である。
2012-09-28 21:39:54結果『Surplus R』のアカウントを使えるのは、地霊殿の住人がほぼ寝静まる深夜帯のみになってしまった。こいし、空、お燐の興味が一時的なものであることを期待したいが、当分はこの状態が続くであろうことを、さとりは諦観しながら受け入れるほかなかった。
2012-09-28 21:47:51「おかげで睡眠時間が少し不規則ね――これ以上こいしに寝不足妖怪なんて言われたくはないんだけど」 ひとりごちると共に、ロウソクの微量なすすが、さとりの目を瞬かせる。
2012-09-28 21:48:18さとりの睡眠時間は、今までは人間に近い尺度であったが、『Surplus R』側で作業があるときは、どうしても眠る時間を後回しにせざるを得なかった。これで小説を書く時間が減らないのは不幸中の幸いであるが。
2012-09-28 21:51:48さて、手紙を読み切ったさとりは、その返信を考え始めた。『Initial A』との手紙のやりとりは既に数度行われており、その間に、お互いの素性が特定されない程度に趣味や好物、日常の出来事について情報交換していた。小説のことを始め、共通の話題に恵まれたため、両者はすぐに打ち解けた。
2012-09-28 21:59:49今回の手紙では、『Initial A』はなにやらとある人物から不躾な物言いをされたことが書かれていた。筆の走り具合から、誇張が入っているにしろ、相当立腹したようだった。ただ、文章中一文字も「男」という漢字がでてこなかったのが、さとりには少し引っかかった。
2012-09-28 22:04:03「ふつうに考えればAさんは女性で、軽薄な男性に言い寄られたと見るところだけど――同性? まさかね――」 小説を書いていると些細な記述も気になってしまう。ある種の職業病だろうか、とさとりはため息をついた。
2012-09-28 22:12:54「さて、この件についての返事と――そうね、日常の話から繋げて、この前の事でも書きましょうか。――でも、まさか妹とペットが喧嘩したなんてダイレクトに書いても首をひねられるだけだから、うまくごまかさないと」
2012-09-28 22:17:48大まかに返信の内容をメモ用紙に残して、さとりは筆を置いた。今晩はここまでだ。流石に眠くなってきたので、今の状態ではうまく言葉が浮かばない。返事を書くのは夜が明けてからでもできる。 さとりは一息でロウソクを吹き消し、席を立ってベッドに歩み寄った。
2012-09-28 22:22:29「――?」 そこでだ。さとりはベッドに乗り上げる前に、違和感を覚えて足を止めた。 真っ暗になった自室を一度見渡す。周囲には何者の気配もない。気のせいか? と思いながら、二度部屋の様子を見――。 「!」
2012-09-28 22:28:07ドアの方角だ。暗がりの蛍光塗料よりもなおおぼろげな、青白い輪郭が現れる。 ぎょっとしたさとりは、三つの目全てでそれを注視する。それが、物理的な光源を持たない存在であることは、遠近感の希薄さで判断できた。
2012-09-28 22:37:54では何らかの霊魂か? しかし何故かそうとも感じられなかった。幽霊ならば室内の温度が下がり、怨霊であれば温度は上がる。しかし、肌で感じる室温は平静なものだ。そもそも、霊魂であれば、見ずとも気配でわかる。今さとりが見ているものは、物理的な存在でもなければ、霊体ともいいがたいものだ。
2012-09-28 22:43:58さとりが観察している間に、謎の存在の輪郭が少しずつ鮮明になる。それにともなって、さとりはその形がなんなのか認識できるようになった。 いや、それどころか、それはさとりの記憶に沈んでいたある存在を想起させた。
2012-09-28 22:54:56犬だ。蒼白の線で縁取られ、グラデーションで面を構成するその立体は、まぎれもない動物の犬だった。 犬の幻影は、さとりに顔を向けることなく、無音でさとりの部屋のドアを通り抜けていった。
2012-09-28 22:57:08青白い輪郭の犬は、「まるで生きている時のように」、上体を持ち上げて前足を台に乗せる。尻尾の振り方も、「生前そのまま」だ。 そうして、バイオネット端末のパネルに鼻面を押しつける――どころか、貫通して内部にまでめり込んでいく。
2012-09-28 23:03:28そのまま、犬は端末内部に吸い込まれるようにして、姿を消した。 残されたさとりは、すぐさまバイオネット端末を掴んだ。機器には一切の外的変化は見られない。犬の鼻息の跡や唾液の付着などあろうはずもなかった。
2012-09-28 23:07:30次にパネルを操作して、機械の動作をチェックする。全くもって正常だ。機器のセルフチェックは何一つイエローやレッドを示しておらず、古明地さとりのアカウントへのログインも滞りなく行われた。 「何これ――」 さとりは困惑に包まれた。
2012-09-28 23:13:43余りに訳の分からない事態に判断力が働かない。ただ、ぼんやりとした眠気は完全に吹き飛んだ。 深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。すると、ある事に思い当たった。
2012-09-28 23:20:10さとりは、バイオネット端末を操作して、古明地さとりのアカウントからログアウトする。そして、『Surplus R』にログインし、操作履歴を参照した。
2012-09-28 23:20:30最新の操作履歴を見たさとりは、背筋に得体の知れないものが走るのを感じた。 「私が、今日投稿したのは――」 『頼れるアルフレッド』。 犬を主役にした作品だった。
2012-09-28 23:25:45