〔AR〕その17
しかし、こいしにとっては、さとりが『Surplus R』であることは問題ではなかった。他ならぬこいしが、さとりに小説の投稿を勧めた覚えがあるのだ。それがきっかけであるにしろ、そうでないにしろ、こいしは、姉が小説を発表することを、少しも悪いことだとは考えていない。
2012-10-12 22:18:16また、記憶があやふやだが、思い返せば、バイオネットのサービスが開始されてから、姉の様子が時々おかしいことに気づけたかもしれない。隠そうとしていたとしても、こいしは別に不快には思わない。 こいしが悩んでいるのは、そういったことではない。
2012-10-12 22:18:31――『Surplus R』先生は……古明地さとりということなんですか!? 稗田阿求。あの人間の少女がそう叫んだときの表情が、声が、こいしには痛みのように焼き付いている。
2012-10-12 22:25:13あの表情を、こいしはどこかで見たことがあるような気がする。もう封じてしまって、朧気にも思い出せないが、そうだったという事実だけは心に残っている。 それはおそらく、かつて自分の第三の目が開いていた時、自分と対峙した人間が見せたものとそっくりなのだろう。
2012-10-12 22:26:43その事実が、こいしの閉じられた心の中で、膿んだ傷口の痛痒の如く呻いた。 「おかしいよ……それまで慕っていたはずなのに」 自分の姉は、さとりは、それほどまでに怖ろしい相手なのか? 確かに自分は、そのように思われるのがいやだから、他人の心を読まないように自分を変えた。
2012-10-12 22:27:12その結果、良いことはあったとは思う。地上に出ていっても大きなトラブルは起きず、様々な人妖と触れあうことができるようになった。 でも最近は、悪いことも見えてきたような気がする。自分が、不安定で面倒な存在であることを、近頃こいしは自覚するようになった。
2012-10-12 22:29:42つまり、目を閉じること、開くこと、共に一長一短なのだと思うようになってきた。 だが姉はどうだ? 覚としてのハンデを抱えたままでいながらも、ずっと変わらずにあり続けていたさとりは。それに対して、新たに悪いことが何だと、どうこう言えるのだろうか……?
2012-10-12 22:31:53「お姉ちゃんは、なにも悪いことしてないし」 例えば、最初からさとりが正体を明かして何かをするのであれば、何らかの驚異を覚えるのは不思議ではないだろう。こいしもそうであれば納得はいく。
2012-10-12 22:35:27しかし、さとりが素性を隠した上でやったことは、ただ小説を見せただけだ。妖怪であれば、姿を隠して何か悪さをするのもありえるが、実際のところさとりはきっと悪事などしていない。 にも関わらず、さとりは恐怖されなければならないのか。こいしは、理不尽さを感じずにいられなかった。
2012-10-12 22:36:59そんなことを考え続けているうちに、こいしは気分が滅入ってきた。彼女がこのようにダウナーに傾くのは珍しいことである。第三の目を閉じた時点で、ネガティブな感情が抑制されるようになったからだ。 「アルフレッドがいてくれればなぁ……モフモフしてたらいやなことなんてパッと忘れられるのに」
2012-10-12 22:39:23こいしも今は亡きアルフレッドをとても可愛がっていた。特にその綺麗な毛並みが大のお気に入りであり、自分の部屋にアルフレッドの寝床をこしらえ、よくスキンシップを図っていた。彼の感触を今でも覚えている。
2012-10-12 22:39:55『頼れるアルフレッド』でも、こいしをモデルにしたかのような登場人物が、物語のアルフレッドと仲良く遊んでいる姿が描かれていた。 憂さ晴らしにペットと遊ぼうと思い立ちつつ、こいしは億劫そうにベットから起きあがった。
2012-10-12 22:40:11「口笛吹けばジョニーは来るかな……ダニエルでもいいなぁ。でもちゃんとノミ取りしてるかな」 とりあえず犬のペットに絞って、こいしは誰を呼ぶかを思案した。 「……?」 ふと、こいしは部屋を見渡した。何かが近寄ってきたわけでもない。廊下から物音がする気配もない。
2012-10-12 22:40:32にもかかわらず、こいしはせわしなく瞬きしながら、部屋の様子を伺う。 何十回目の瞬きであろうか。その時こいしは、部屋の片隅に影を見た。照明によって生じた、調度品の影ではない。 瞬きを重ねるごとに、それは明確な形を成していき、数度のシャッターの後、何なのかが鮮明になった。 「――!」
2012-10-12 22:42:28こいしは息を呑んだ。 部屋の隅に実体化したのは――体を丸めて眠る、ラブラドールレトリバーだ。全体的に青白くぼやけたカーテンに覆われているように見えるが、その毛並みの色合いに、こいしは見覚えがある。 「アルフレッド!」
2012-10-12 22:45:06ベッドから飛び跳ねるどころか、低空で飛翔し、こいしはその幻影に接近した。 しかし、後半秒で手が届く距離、こいしが瞬きをしたところで、それは最初から存在しなかったように消えた。 「ふぎゃん!」
2012-10-12 22:45:46勢い良く飛びかかったこいしは、ブレーキをかけることも叶わず、顔面から部屋の角に激突した。視界が簡易プラネタリウムになる。 「うぅ~……一体なんなのぉ~」 部屋の隅で、かつてのアルフレッドのようにうずくまって、こいしは涙と痛みをこらえるのだった。
2012-10-12 22:46:12