〔AR〕その22
さとりは、明らかに人里から逃げ出していた。里で何かあったと考えるのが自然である。その姉が、逃げ出す先が、この地上のどこにあるだろうか。 何故、すぐその判断に基づいて動かなかったか。こいしは己の迂闊さを呪うと共に、その不可解さに頭痛を覚えた。
2012-11-02 20:23:48本来であれば真っ先にそうするであろう行動に行き当たらない自分が、おかしく感じられる。 もしかして、自分は考える時間が欲しくて、徒労であることを予想しつつもあえて空を飛び回ったのか? 実際に、今現在のこいしは、昼頃の少なからぬ動転からは立ち直り、精神の均衡を保っている。
2012-11-02 20:24:14だが同時に、何か得体の知れない漠然とした不安を抱えていた。それは、何らかの結末の答えを用意しているかのようだ。 その答え合わせは、地霊殿でなされるであろう。内なる声が予言する。
2012-11-02 20:25:32こいしは速やかに地上を後にして、地底へ潜った。その足取りは瞬間移動したかのように――実際、瞬間移動したかもしれない――あっさりと隔たる距離を超えた。 家に帰る途中、旧都と地霊殿の境目のような場所で、こいしは星熊勇儀に声をかけられた。 「よう、お前さんが姿を現すたぁ珍しい」
2012-11-02 20:26:08勇儀がそうこぼすのも無理はない。こいしは無意識の力で旧都を抜けていくため、彼女の姿を道すがら見かけるということはまずない。 「珍しいかな。私はよく旧都を歩いているけど」 「だから珍しいんだよ。そんなに早歩きしてな」
2012-11-02 20:26:36こいしは足を止めず、勇儀は話をしながらも彼女を引き留めないように横を歩く。こいしの速度は、勇儀の大股の歩きと拮抗していた。 「そういや気になったんだが、今朝、さとりの奴がお前さんの服着てたぞ。何の悪い冗談かと思ったが、あいつは誤魔化して逃げちまった」 「そう、なんだ」
2012-11-02 20:27:20こいしは思い至り、勇儀に質問した。 「その時のお姉ちゃん、どういう感じだった?」 「んー、私に見つかったのは具合悪かったみたいだが、それを差し引いてもまぁ、浮き足立ってたよ。まるでこれからお祭りに行こうって感じだったねぇ」 「――そっか」 こいしは静かに頷いた。
2012-11-02 20:27:47その様子を少し凝視した後、勇儀は、突如足を止めた。 「そろそろ地霊殿だろ? 私が行ってもしょうがないし、この辺で帰るわ」 「わかった。勇儀さん、ありがとう」 「礼を言うのは筋違いだよ。感謝の安売りはやめとけ。じゃ、そのうち気が向いたら、また缶詰でも差し入れにくるよ」
2012-11-02 20:28:08勇儀は洒脱な振る舞いで踵を返すと、元来た道、すなわち旧都へと去っていった。 その後ろ姿を数秒、こいしは眺めていた。美しく、かっこいいと素直に思う。わずかなやりとりの中で、さらりとした粋と気遣いを見せられる彼女は、誰もが認める地底の星であり華だ。
2012-11-02 20:28:52そんな勇儀に、こいしは今まさに勇気づけられた。だから、礼を言った。これから直面するであろう現実に立ち向かう力をくれた。ささやかでも、こいしにはそう思えた。
2012-11-02 20:29:02「こいし様、こいし様!」 「さとり様が、おかしいんです!」 地霊殿の玄関から入ってすぐ、こいしはお燐と空に泣きつかれた。 お燐は普段の飄々さがなりを潜め、青ざめている。空に至っては、元来の大柄に反して体を縮こめ、顔面に涙をたたえていた。
2012-11-02 20:29:43「家に帰ってきた途端に癇癪を起こしになられて、その後部屋に閉じこもっちゃったんです!」 「あ、あんなさとり様見たことない――どうしようどうしよう」 半ば恐慌状態の二人の様子から、事態は深刻であるとこいしは重く受け止めた。
2012-11-02 20:30:19見れば、廊下には他のペットたちも落ち着かない様子で右往左往しており、地霊殿全体に動揺が広がっているのが空気でわかった。 「もうあたいたち、どうしていいかわかんなくて――」 「わ、私たちなんか悪いことしたのかな? 守矢神社でチョコレートねだったのがばれちゃったのかな?」
2012-11-02 20:30:38「あんたそんなことしてたのかい! ってそんなんでさとり様が怒るわけないだろ!」 「うん、わかった」 慌てふためく二人を落ち着かせるように、こいしは割って入った。 「私が何とかする。二人は、他のペットたちと一緒におとなしくしていて」 「は、はい」 「うにゅ……」
2012-11-02 20:31:08どのように壊されたか、細かく検分する気にはならなかったが、端末を置いていた木の台もが崩れているあたり、相当のことが起こったのは想像に難くない。 破壊の痕跡に眉をひそめながら、こいしはさとりの部屋に近づく。その度に一歩がどんどん重くなる。
2012-11-02 20:32:33理屈抜きでわかってしまうのだ。端末の破壊は、これから見ることになるであろう光景のサンプルにすぎない。 部屋のドアとこいしは対峙する。足をカーペットに縫いつけられたような心地。怖かった。覚悟を決めてもなお現実と向き合うのが。 だが、こいしは、恐れを振り切ってドアを開いた!
2012-11-02 20:34:10まず目に付いたのは散乱する本と紙の数々、それらに覆い被さる木製の本棚の残骸。 平行して視界に飛び込んできたのが、鏡のたたき割られた化粧台だった。ただ割られたわけではない。血痕の付き方から、おそらくは額を打ち合わせた後、拳を数度叩きつけて多くの鏡の破片を剥離させている。
2012-11-02 20:35:32書斎机は引き出しが軒並み飛び出していて、中身を引き吊り出されている。床にばらまかれた紙の何割かは引き出しに納められたもののはずだ。旧地獄を管理する仕事関係の書類に混じって、さとりが小説を記した紙や、手紙の便箋が踏みにじられていた。
2012-11-02 20:35:59大同小異、この部屋はそのような破壊が詰め込まれている。 こいしの意識が暗転しかける。これは、ただ単に物に八つ当たりしたというレベルではない。心身双方にわたる徹底的な自傷行為だ。 それでも、どうにかこいしは踏みとどまった。なぜなら、まだ、本当の現実に直面していないからだ。
2012-11-02 20:36:27「う――うぅぅぅぅぅっ」 無意識のうちにシャットアウトしていたらしい聴覚が、ようやく最初から部屋に満ちていたすすり泣きを受け取り始めたのだ。 「う、う、う、」
2012-11-02 20:36:47