「日常の謎」という括り方の問題に抗議してみて他の話題にも触れたらこんなことになりました。
@ashibetaku @Yu_Godai @shibatay そのこと自体を目的としたものではないと思えます。従って(そもそも定義が曖昧なものの)例えば「日常の謎」http://t.co/hfaoM11a という括りで北村薫作品が扱われてしまうのはどうかと思わされます。
2012-10-30 10:56:33@ashibetaku @Yu_Godai @shibatay 例えば『街の灯』からの英子とベッキーさんの物語はある巨大な歴史的事件と共に始まり、それと対になる事件と共に終わるもの。個別の事件でも人は死に、いうまでもなくはじめと終わりの事件では多くの血が流れます。
2012-10-30 10:56:46@ashibetaku @Yu_Godai @shibatay しかし、「英子とベッキーさんの物語」はきっちりと『空飛ぶ馬』からの北村薫作品の流れに乗る物語なのだと、僕には思えます。
2012-10-30 10:56:59@ashibetaku @Yu_Godai @shibatay 例えば『盤上の敵』も《「謎を解く」ことが人の世界に存在してしまっている耐えがたいものと出会い、深く刻み込まれてしまった傷との和解に繋がる物語》としてその流れから外れるものでは断じてないと考えます。
2012-10-30 10:57:08@ashibetaku @Yu_Godai @shibatay なお、そういう観点からは『空飛ぶ馬』からの物語が「円紫さんシリーズ」と呼ばれることにも、大きな違和感……もっといえば強い反感を抱き続けています。
2012-10-30 10:57:17@ashibetaku @Yu_Godai @shibatay あのシリーズは≪私≫の「L'histoire------歴史」(『空飛ぶ馬』創元推理文庫版p13)であり、北村薫作品において唯一漢字の≪私≫が使われる≪私≫、その「《私》(と円紫さん)の物語」なのだと僕には思えます。
2012-10-30 10:57:46北村薫『空飛ぶ馬』を《本格ミステリとビルドゥングス・ロマンをどちらも極めて高レベルに描きつつ、融合させた記念碑的傑作》と捉えた場合、その流れを汲む作家として個人的に一番惹かれるのは米澤穂信。そして、以下の引用にそれぞれ象徴されるスタンスの違いがとてもとても興味深いと思う。
2012-10-30 11:13:45「全能感と裏返しの無能感、これを試練にかけることで自分を客観視することのできる視点を獲得する、そこまでの物語として〈古典部〉シリーズと〈小市民〉シリーズは考えています」(『ユリイカ』39巻/米澤穂信×笠井潔対談より)
2012-10-30 11:14:05@sagara1 ツイート拝見。僕自身、北村薫さんのお作に接して思ったのは、自分たちが主人公である「日常」に潜む謎や驚異、それを紡ぎ探り出す(暗部も含め)人間への讃嘆でした。ところが「日常の謎」と名づけたとたん、みるみる矮小化して、輝きを失ったようなのが残念でならないのです。
2012-10-30 11:31:48@sagara1 (続き)北村さんの作品そのものではなく、「日常の謎」という名前に影響されたらしきアマチュアの作品を見たことがありますが、それはもう惨憺たるものでした。素人だからしょうがないというより、根本的に何かが欠落していた。そうしたこともあり、ああした言い方をした次第です。
2012-10-30 11:35:03@ashibetaku はい。もちろん、それはわかります。ただ、やりとりを拝見させて頂いていて、いわゆる(極めて安易な意味の括りでの)「日常の謎」などというものと北村薫作品が「どう異なるのか」を(続く)
2012-10-30 11:43:34@ashibetaku 「当然、違うよね」と軽く流すのではなく、一北村薫ファンとして、はっきりさせたいところだと思わされました。また、芦辺先生宛ではありませんが「円紫さんシリーズ」という呼称は個人的に大変気にかかるものでしたから、それについても触れたいと思えました。
2012-10-30 11:45:21@ashibetaku なお、北村薫作品についてでなく「日常の謎」という括りは例えば米澤穂信、加納朋子、光原百合といった、諸々の優れた作家の傑作群についてもやはり大変に失礼なものだとも思わされます。
2012-10-30 11:46:04個人的に気になるのは「主人公らが神山高校に入学した年が、原作では2000年、アニメでは2012年」http://t.co/UwIQuQdp ということ。それはどれくらい意識されているのだろう、と。
2012-10-30 12:38:11奉太郎がなんだかんだで年齢相応に「薔薇色」に惹かれつつ、醒めた目(灰色)で狭い日本の高校という世界にいる自分と周囲を眺めてしまうのは、姉の折木供恵によって地理的にも時間軸的にもやたら大きな視点を突きつけられ、その中での卑小さを思うから。http://t.co/XgwlN1S5
2012-10-30 12:38:16原作ではそのことによる(奉太郎からみて)コップの中の嵐に汲々とする周囲と奉太郎の認識・視点の差がギャップを生んでいる。しかし、12年経っていろんな意味でグローバル化が進んだために、「世界/歴史の中の自分」というのは高校生として、とりわけ珍しい視点でもなくなっている。
2012-10-30 12:38:25その分、ある意味奉太郎は距離が近く、とっつきやすくなる一方。毒は薄れ、魅力も薄れ、彼の中の「薔薇色」と「灰色」の葛藤もあまり大したものになりようがなくなってしまうことは避けられないはずで。「そうなってしまったら、その話って面白いの?」というのはどうしても。
2012-10-30 12:38:34ギャップが小さくなった分だけ特異性を失った折木奉太郎というキャラクターはその青春の悩みごと矮少化されるし、そうなると対応する千反田えるのあり方もまた、単なる萌えキャラに近くなってしまうくらいに堕ちかねない。それだと嫌だな、すごく嫌だな、という。
2012-10-30 12:38:43『氷菓』(2001)が素晴らしく見事に2000年の高校生の「今、ここ」を描いたものであったからこそ「12年時間をずらした」ということは物語全体に甚大な影響を与えざるを得ない。その問題をどう処理したのか、あるいはプラスに転じさせたのか。どうなんだろう。やっぱり観ないとダメだな。
2012-10-30 12:46:10以上、これまで私がいわゆる『日常の謎』系に抱いていた違和感というか反感というか物足りなさを的確に言い表してくださったリプでしたので、RTさせていただきました。不都合がありましたらおっしゃってくださいませ@sagara1
2012-10-30 22:58:01私は『ドラマというのは物事の連続ではなく、キャラクターの内面性の変化にある』と思っていて、しかも『誤解が解けて仲良くなりました』『彼女との仲が進展しました』『親子の確執が解けました』程度では満足できない因果な読者なのですが@sagara1
2012-10-30 23:00:30