SF大会の懇親会で出た話題について。比喩というのは、それが比喩として機能する相手にしか意味を持たないわけです。たとえば、「フラクタル」を比喩とするなら、その言葉で「雪の結晶みたいな形ね」と思う人と「フラクタル次元はいくつなんだ?」と思う人とでは機能のしかたが違う @hazuma
2010-08-10 12:05:27比喩はそのものずばりではないことによって、相手の知識次第でまったく違う受け取られ方をされうるし、もちろん、時代が変われば受け取られ方も変わる。この点は比喩を使う側が当然負うべきリスクなわけです @hazuma
2010-08-10 12:11:24僕の考えでは、科学的な用語を「比喩」として使うのがいけないのではなく、たとえば「フラクタル」を比喩としたときに、フラクタルに詳しい人から「フラクタルのどの側面を比喩に使っているのか」と問われるのはしかたないということです。共通認識のないところに比喩は成立しない @hazuma
2010-08-10 12:13:09いっぽう、フィクションはどんなでたらめを書いてもいいので、でたらめでかまわない。ただ、たとえば「ニュートリノで人体をスキャンする」と書かれたら「それは筋が悪いなあ」と思う人が一定の率いるのはしかたない。そう思っちゃった人はもうその作品を楽しめないかもしれない @hazuma
2010-08-10 12:17:16それはもう作家側が負うべきリスクとしかいいようがないわけです。読者の知識の程度によって楽しめたり楽しめなかったりするのは当然なので。「どれだけの読者をあきらめるか」と「うまい嘘のつきかた」の問題でしょう。 @hazuma
2010-08-10 12:20:58いえ、ソーカルとはちがって、比喩であれSF設定であれそれが通じる読者と通じない読者がいるのは当然だし、それ自体は書き手側が負うべきリスクだと言っているだけですが、でもその話をしたときの @hazuma さんは酔ってたから、覚えてないかもね @foxhanger
2010-08-10 12:22:55「科学的に正しいSFなどありえない」というのが当然理解しておくべき基本なのだけど、それでも「そうは言っても、この間違いには本を閉じたくなった」とかそういうレベルの話はいくらでもあって、それは読者個々人の「ツボ」の問題だから、解決策はない @hazuma
2010-08-10 12:46:27何度も書くけど、小説のジャンルというのは重要なのです。その問題については『黄色い部屋はいかに改装されたか』を読めと、何度でも言いたい
2010-08-10 12:54:34比喩を使う権利も自由もあり、それを批判する権利も誰にでもありますね。そして、これは「ジャンル」の問題ですが、文学における比喩は端的に「うまいか下手か」「通じるか通じないか」、あるいは「どれだけの読者をあきらめるか」に尽きると思います。あ、別に返事はなくてもいいです @hazuma
2010-08-10 14:47:49フィクションの中でなら、なにをどうでたらめに使おうとかまわない。フィクションというのは嘘を書くものなので、「でたらめ」だという理由で非難するのはどうかしています。ただ、「でたらめ」だという理由でつまらなく感じることも読者の権利なので、それはしかたがないのです。 @hazuma
2010-08-10 14:51:38おもしろい、おもしろくない、と思うのが読者の権利なんて、そんな基礎的なことをわかっていない人間だと思われている、という事実に深い衝撃を受けている。そんな先入観をもたれているのでは、ぼくはもうどうしようもないです……。S
2010-08-10 15:00:51いや、それが考えすぎなんですよ。僕は「面白い面白くないは読者の権利だということも東は理解していない」なんてことは言っていないんですよ @hazuma
2010-08-10 15:03:04了解しました。ではなにが問題になっているのでしょう……? RT @kikumaco いや、それが考えすぎなんですよ。僕は「面白い面白くないは読者の権利だということも東は理解していない」なんてことは言っていないんですよ
2010-08-10 15:04:20なるほど! いや、これは哲学史的にかなり一般的な理解のはずです。ぼくが強弁しているのでありません。RT @kikumaco いっぽう、フランス哲学の一部はもう文学だからいい、というのは、少なくとも僕には理解できません。
2010-08-10 15:06:25日本で「現代思想」と呼ばれ、英語圏で「Theory」と呼ばれることが多い戦後のある世代のフランス哲学者たち(ラカンだけ一世代上ですが)は、ハイデガーにきわめて強い影響を受けています。デリダにしろドゥルーズにしろ、「ハイデガーの翻訳者」だと言っていい側面すらあります。
2010-08-10 15:08:28おそらくそうなのでしょうが、僕は哲学を知らないので、哲学とは文学ではないのだろうと思うわけです。したがって、それを読むモードはフィクションではなく科学のモードになりますよね。それが、僕が「ジャンル」の問題と言っていることなのですが @hazuma
2010-08-10 15:09:42だからソーカル事件の起源はじつはハイデガーなのです。さっきカルナップの名前を出しましたが、ハイデガーと論理実証主義(ウィーン学派)というのは同世代です。強力に科学志向の論理実証主義(のち英米系の分析哲学)と、強力に文学志向のハイデガーに分化するところから20世紀の哲学は始まった。
2010-08-10 15:10:18したがって、「科学と文学」「論理と詩」に分化してしまった20世紀の哲学を今後どうするべきか、というのはきわめて重要な問題です(これは拙著「存在論的、郵便的」でも扱っています)。しかし、その一方から他方を断罪するのは、じつはぜんぜん問題解決にならないのです。
2010-08-10 15:11:57いまの説明でも納得いただけませんか? 「哲学」という言葉にも幾重の用法があるのです。RT @kikumaco おそらくそうなのでしょうが、僕は哲学を知らないので、哲学とは文学ではないのだろうと思うわけです。したがって、それを読むモードはフィクションではなく科学のモードになりますよ
2010-08-10 15:13:10別の言葉で言い替えれば、<哲学を科学のモードで読む>という行為そのものが、20世紀以降においては哲学の一サブジャンルになってしまっているのです。したがって、哲学について真剣に考えるのであれば(別に考えなくてもいいですが)、その行為の歴史性を相対化する必要はある。
2010-08-10 15:15:13いや、納得というよりは、そういわれると理解はできますが、そういう哲学書をどういうスタンスで読めばいいかについては、途方に暮れます @hazuma
2010-08-10 15:15:50