ゆるふわ形而上学読書会番外 - 清塚邦彦『フィクションの哲学』合評会(2010-01-24、本郷)

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@portedieu

4.「人がふだん行なっている解釈(解釈という言葉もあまり好きではないので別の言い方をすれば理解)は、おもしろさではなく、真偽を問題にしている」ことを認めるとして、「人が「俺は真理値を問題にしているな」」と考えていることは「真理値を持つ」ことの十分条件なのか?

2010-01-26 18:38:36
@portedieu

いずれも、もし僕が勝手に「全称命題+その十分条件」を求め過ぎているだけで、実は目指されているのは「存在命題」あるいは「必要条件」を示せば良いというだけのことだったのであれば、恐らく議論の対象が食い違っていただけ、ということになるのでしょう。

2010-01-26 18:43:42
@portedieu

つまり、議論のゴールが、【「「解釈に関する言明は真理値を持つ」「その際作者の意図は真偽を左右する」「意図に関する言明も真偽を持つ」」が偽であることを証明する論理は見出されない】ところにあるならば、それはその通りだと僕も思います。

2010-01-26 18:45:53
@portedieu

そうではなく【「「解釈に関する言明は真理値を持つ」「その際作者の意図は真偽を左右する」「意図に関する言明も真偽を持つ」」は真であると証明できる】ならば、その主張は分が悪いかな、と思うわけです。いやそれは目指していない、ということならば、意外と認識は一致していたのかも。

2010-01-26 18:47:42
is @iklog

Paisley Livingston, Art and Intention (2005)をパラパラ。先日の検討会の打ち上げでやったような話を真っ向から論じるものみたい。暇をみて読む予定。

2010-01-26 18:50:06
is @iklog

本の中で、"intention"に関連する他言語の言い回しの例として、"kokorozashi"と"tumori"が出てくる。渋い。

2010-01-26 18:59:36
is @iklog

間違えた。"tumori"→"tsumori"

2010-01-26 19:00:14
縮限 @contractio

@at_akada 日曜の参加状況を振り返ってみると、ひょっとして私は「対立点をずらそうとする人」に分類されているのかな、という気がするのだが。そうなのだろうか。 http://ow.ly/10wGm

2010-01-26 22:09:56
縮限 @contractio

私は「解釈に関する言明は真理値を持つ」「その際作者の意図は真偽を左右する」「意図に関する言明も真偽を持つ」などといった主張にコミットしないし、かつ、反本質主義者でもない。だから議論には「本質主義を擁護/拒絶するか否か」という仕方ではコミットしていなかっただけなのだが。

2010-01-26 22:11:46
縮限 @contractio

直前のポストにいう「主張にコミットしない」というのは、「「それらの主張は間違っている」ということにコミットする」という意味ではない。(念のため)

2010-01-26 22:12:51
at_akada @at_akada

@contractio さかいさんを思い浮かべていたのは事実ですね。「ずらそうとする」はあまり適切な表現ではなかったかもしれないですが

2010-01-26 22:30:44
at_akada @at_akada

@contractio 本人のつもりとしては「ちょっと別の視点からコメントする人」くらいの気持ちで書きました

2010-01-26 22:33:15
kugyo W @pubkugyo

.@portedieu フィクションの中の真理を知るのに作り手の意図は不要でしょうね。ここでも、テクストの解釈と作品との結びつき(探偵は電車に乗ったと読み取れるか? 真偽あり)と、作品の解釈(探偵が電車に乗ったことは何の隠喩か? 真偽なし)を分けて考えるのが有効に思われます。

2010-01-26 22:13:28
@pubkugyo

Goodman & Elgin(1986)では、テクストの解釈が問題になるのはロンゴロンゴを解読するような状況の場合であると言っていたと思います。テクストという用語は、文トークンであるもの(したがって通常、文タイプや命題やを誤りなく引き出せる)を指すのにとっておく立場をとりたい。

2010-01-26 22:16:50
at_akada @at_akada

@portedieu うーん、先日も何度かコメントした気がするんですが、@portedieu さんの頭からは「どちらがもっともらしいか」という視点がすっぽりと抜け落ちている気がします。「証明できる / できない」以外に「こちらの方がもっともらしい」という、程度の問題があるのに。

2010-01-26 23:11:38
at_akada @at_akada

@portedieu とりあえずわたしは自分の擁護したい見解を「証明」したいわけではないく、「そちらの方が(その否定より)もっともらしい」と言おうとしていました。

2010-01-26 23:16:25
at_akada @at_akada

@pubkugyo その用語系だとわたしは、「テクストの解釈」から「作品」へのジャンプを「解釈」って言ってました。「作品解釈」というのは、まだちょっと何のことかわからないでいます。

2010-01-26 23:40:08
kugyo W @pubkugyo

.@at_akada そうですね。"テクストの解釈"と"作品"とをつなぐのが、フィクションの中の真理の問題だと思います。空所補充の前の命題集合が"テクストの解釈"であり(こちらは真偽が問える)、空所補充後の作品世界が"作品"である(補充した命題の真偽は問えるか?)というわけです。

2010-01-26 23:45:22
at_akada @at_akada

@pubkugyo あれ、テクストからテクストへの解釈では、どこまで作業が行なわれるの? 発語内行為の決定とかまでそこで終わってる?

2010-01-26 23:53:14
kugyo W @pubkugyo

.@at_akada テクストからテクストの解釈をした段階では、文トークンから意味が理解されるだけではないかと思います。それが虚構文として用いられたかどうか(命令文の効力を棚上げにするかどうかなど)の決定は、テクストの解釈から作品への移行によって行われるのではないでしょうか。

2010-01-26 23:58:43
at_akada @at_akada

@pubkugyo なるほど。むずかしいですね。意味論的値の割り振りをどう考えるかでも、だいぶ立場がいろいろありそうです。

2010-01-27 00:02:38
kugyo W @pubkugyo

なんか既存の学に基づかぬことを言い出しちゃった気がする。文学作品がhitorically sensitiveであることはCurrie(1991)に従って認めてよいと思うが、歴史を無視した(Anachronistic)作品解釈は誤った解釈である、という説得をもっとしてほしいのだ。

2010-01-27 00:04:27
kugyo W @pubkugyo

あ、そうそう、Currie(1991)も最後のところで留保しているように、Stanley Fish(文学理論家で文芸批評家です)などに言わせれば、テクスト解釈と作品解釈とを分けることはできないってわけだ。私はこっちの立場を擁護してCurrieの議論を検討したいなあと思っている。

2010-01-27 00:08:18
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