ゆるふわ形而上学読書会番外 - 清塚邦彦『フィクションの哲学』合評会(2010-01-24、本郷)

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縮限 @contractio

@iklog ただし、「この議論+あんた(ら)は本質主義だ」と言われていたわけなので、iklog さんがその言葉を自分で引き受けなくても自体はそんなには変わらなかった(=それが引き金を引いたわけではない)ような気はします。

2010-01-25 17:09:40
is @iklog

@contractio なるほど。でもそのときの「本質主義」が何か恐ろしいことを意味しているのではないかと不安でなりません。「この世界の諸悪の元凶」みたいな。

2010-01-25 18:10:10
縮限 @contractio

@iklog そうです。本質主義はこの世界の諸悪の元凶であり、たいへん恐ろしいものです。 て爺ちゃんが言ってた。

2010-01-25 18:57:30
at_akada @at_akada

@iklog あそこで「本質主義」と呼ばれたのは、意図/解釈/行為に関する言明だって真偽を持つというくらいの見解だった気がします。プラスアルファ「この世界の諸悪の根源」「旧世界の悪の象徴」というニュアンスはあったかもしれませんがw

2010-01-25 18:19:43
is @iklog

@at_akada それだけで「本質主義」と呼ばれてしまうんですね…

2010-01-25 18:31:59
縮限 @contractio

「非国民」みたいなもんですかね。 RT @iklog: @at_akada それだけで「本質主義」と呼ばれてしまうんですね…

2010-01-25 19:03:14
縮限 @contractio

(;゜0゜)ハッ! ひょっとして、反本質主義者の謂う「本質主義」には、本質がないのでは?! RT @contractio: 「非国民」みたいなもんですかね。 RT @iklog: @at_akada それだけで「本質主義」と呼ばれてしまうんですね…

2010-01-25 19:18:04
at_akada @at_akada

@h_kagami なるほど。どっかに罠がありそうだと思いましたが、実数すべてに名前をつけるのがまず無理な仮定でしたか

2010-01-25 22:08:11
@pubkugyo

2010年4月の応用哲学会の公開シンポ「テツガクとブンガクと…」、いつのまにか司会が清塚先生であると公表されてるではないか。http://wwwsoc.nii.ac.jp/jacap/index.html

2010-01-26 00:23:55
at_akada @at_akada

@pubkugyo このポストなんだけど、答えるべきなのは、「真理の担い手」じゃなくて「真理メーカー」であってる? http://twitter.com/pubkugyo/status/8170194665

2010-01-26 00:57:47
kugyo W @pubkugyo

.@at_akada はっ、そうです、訂正します。例えばTruth in fictionというときのtruthmakerは?というのを考えています。(でも、truthmaker を持ち出すこの手の議論はあまり筋がよくないということをCDinMを通じて学んだなあ。)

2010-01-26 01:11:04
kugyo W @pubkugyo

3人称の語りの扱いについては『フィクションの哲学』pp.223-227に議論があるけど、ここでのCurrie(1990)への対応(「虚構的な作者」は余計だ)はうまくいってないよな。虚構的な作者は語り手とは見なせないからってだけでは、フィクションの真理の説明に使えないとは言えまい。

2010-01-26 01:25:06
kugyo W @pubkugyo

あと、複数の解釈が可能であることについては、pp.240-244に記述がある。テクスト-テクストの解釈-作品-作品の解釈、という区別が絵についても成り立つかどうかはわからないが(成り立つだろうが)、ここでの話題はテクストの解釈(何を描いた絵であるか)が複数ありうることのようだな。

2010-01-26 01:28:33
@pubkugyo

はやくやることやって、文学理論の哲学をたくさん勉強しないといけないな。Philosophy of Literatureのアンソロではふじゅうぶんだろうが、とりあえずInterpretation関連の論文(Booth, Carroll, Levinson, Robinson)を。

2010-01-26 02:15:24
@pankyokouron

文学理論の話を分析哲学の土俵ですることは、ほぼ無茶な話。その逆をやろうとすると今度は、文学(あるいはもう少し限定的な言い方で文学作品)の可能性が削がれることになる。程度の差はあれど、文学の論文は、読み手が直観的に理解を共有してくれることに暗黙裡に依拠しがちだから。

2010-01-26 02:03:39
@pankyokouron

作品論で行う文学研究って、「論理的正しさ」の優先順位が、一番ではないんですよね〜。だから、「科学的」なんてものとは無縁。分析哲学をメインウエポンとしている方には、その辺りを考慮していただけると、より建設的な議論ができそうな気がします。

2010-01-26 02:09:30
@pankyokouron

文学乙な時代ですw

2010-01-26 02:10:16
縮限 @contractio

お主、分析美学の存在を知っての狼藉か。 RT @pankyokouron: 文学理論の話を分析哲学の土俵ですることは、ほぼ無茶な話。その逆をやろうとすると今度は、文学(***)の可能性が削がれることになる。***

2010-01-26 02:54:03
@pankyokouron

@contractio 分析美学、知りませんでした。。。w けど少なくとも、分析哲学のような論理的正しさは文学理論とは相いれないものかなあなんて。「なにごとも程度問題」でやっている側面が強い学問だと思うので。

2010-01-26 09:13:54
@portedieu

『フィクションの哲学』読書会まとめ、お疲れ様です。記憶力と整理力に感服しました。で、まとめに乗っかって改めてあの場で未解決だと思っていた部分を僕も整理。もしかすると僕があの場での「本質主義」をあまりに狭く理解し過ぎていたのかも知れないので。

2010-01-26 18:20:33
@portedieu

1.「『こころ』を読んであきらかにまったく関係のない小説の内容を読み取る」場合、真理値が問題になり得るとして、それが証明するのは、「解釈に関する言明は真理値を持つ」ことの十分条件ではなく、「解釈に関する言明のうち、真理値を持つものがある」(必要条件)であるのではないか?

2010-01-26 18:22:58
@portedieu

2.「意図に関する言明も真理値を持つ」も同様。ある人が「1+1=2」と言ったときに、「この砂糖は甘い」と解釈した人がいて、「俺はそんなことは言ってねぇ」という言明が真理値を持つ場合がある。そのことは「意図に関する言明も真理値を持つ」の必要条件を証明しているだけではないか?

2010-01-26 18:27:23
@portedieu

3.もし「解釈に関する言明は真理値を持つ」等を、全称命題ではなく存在命題として主張するので足りるとするならば、「真理値を持つ解釈に関する言明」と「真理値を持たない解釈に関する言明」に分ける必要があって、その際本当に「その際作者の意図は真偽を左右する」というのが重要になるか?

2010-01-26 18:30:38
@portedieu

(以下、存在命題として主張する場合の話。全称命題として主張し得るとするならば蛇足。)たとえば「『こころ』に桃太郎が登場する」は真理値を持ち「『こころ』で「私」と先生の奥さんはデキている」という命題は真理値を持たない、というように分けられるとして考える。

2010-01-26 18:33:49
@portedieu

「『こころ』に桃太郎が登場する」のような命題の真理値は「その際作者の意図は真偽を左右する」と考える必要があるか?むしろ、真理値を持つ命題には作者の意図は不必要ではないか?通常議論で引き合いに出される場合のある「作者の意図」は、真理値を持たない方の命題ではないか?

2010-01-26 18:36:33
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