細川家の諸々

個人的メモ(出典は綿考輯録とか松井先祖由来附)
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珍しく批判を言われている松井。そして褒められる有吉。

有吉さん家

はしょ @hassyo

「一今年有吉立行嫡子出生、忠興君、与太郎と名を被下候(後長岡内膳興道と改)」(『綿考輯録』第二巻(巻九)四十六頁)におめでとう……おめでとう有吉……! って思った

2012-12-07 22:11:46
はしょ @hassyo

「立行母ハ橘氏の人の女也、立言死後妙鏡と云女なから武篇ニ心かけあり、馬上の達者也、丹後の内萱ニ隠居して立行より菅源兵衛(初五大夫)を付置候、或時萱より御城下へ赴く途中ニ而、手負猪駈来るを妙鏡馬より下り立チ長刀を取て是を仕留る、惣て立行不有合時は家中の仕置等も妙鏡計ひけると也、」

2012-12-11 20:48:49
はしょ @hassyo

(『綿考輯録』第一巻(巻一)四十六頁)って有吉家ちょっとバラエティ豊かすぎる

2012-12-11 20:49:34
はしょ @hassyo

「立行ハ若年より藤孝君の御側ニて御育テ被成候、元亀元年十三歳の冬藤孝君の許へ御夜客ニ而御宮仕相勤候砌、御料理人過言之儀有之候間、言葉をかけ置間、鍋を御料理人受取所を脇差ニて抜討ニ仕留申候、藤孝君其仕方を殊之外御賞美被成候、

2013-01-19 01:46:22
はしょ @hassyo

惣而若き時ハ鈍き生れ付と諸人存候ひしか、十七八の時忠興君御幼年なりしを肩くるまに乗せ奉り河を渡り候に、水思の祖と深く平吉か頭の上迄あかりしに、少もかまはす向の岸に着て、忠興君をおろし奉ると其儘絶入しけれハ、薬を与へ腹の水を踏出しなとしてからゝ命助かりし也、

2013-01-19 01:48:14
はしょ @hassyo

忠興君御稚心ニたたものにあらすと思召候ひしか、次第ニさかしく成、一代の間戦場ハ不及申仮初の事ニも勇気のほまれ多かりし、と後迄御咄被成候、天正元年城州淀の城攻十六歳ニて初陳より場数三十余度、一度も不覚なかりしと也、」(『綿考輯録』第二巻(巻十八)四四四頁)

2013-01-19 01:52:19
はしょ @hassyo

みんなに「鈍い奴だな……」って言われていたっていうの、この「十三歳の冬(中略)脇差ニて抜討ニ仕留申候」からみるとどこが? って感じなんですが、なんかたぶん普段はぼーっとしてたのかなあ。

2013-01-19 01:55:29
はしょ @hassyo

それで十七~八歳のとき、忠興(立行が十七なら忠興は十一歳かな)を肩くるまして河を渡って……って忠興かわいいな! お前十一にもなって肩車か! 今基準で考えるとかわいいなおい!

2013-01-19 01:57:07
はしょ @hassyo

平吉(とは立行の幼名である)の頭の上くらいまであるのに、少しもかまわず向こう岸につき、忠興をおろしたらそのまま倒れたと。あほですね。薬を与えて「腹の水を踏出し」ってひどいですね。でもおかげで助かったらしい。なんでしょうねこいつ。幼い忠興さまも「ただものにあらず」と思うわけですよ。

2013-01-19 01:59:04
はしょ @hassyo

でもそれからだんだん賢くなって、三拾数度戦場に出たけど不覚が一度もなかったと。この「一度も不覚なかりし」は関ヶ原合戦後も言われていて、だから「武蔵を名乗っても誰も笑うまい」と忠興から武蔵守を拝領していたりします。

2013-01-19 02:00:10
はしょ @hassyo

「或時嫡子康以・家司河西惣右衛門両人願ひに、元有公以来当家数度の忠勤戦功之趣、家譜を仕立後代の為遺し申度といふ、立行申候ハ、武功家筋之儀は上へ委細御存知之事也、功を云立候ハ新参之衆の致事也、我等御譜代長臣の家柄ニて飾事ハ少も無之、細川の御家有つて有吉の名字さへ絶されば、

2013-01-19 02:04:09
はしょ @hassyo

功の失ることも有間敷、細川之家ニ有吉と云者有事世ニ不知者ハなく、後代迄も左有へき也、不入事をせす共家の絶さる分別肝要ならんとある故、至極の仰なりとて留書をせさりしとなり」(『綿考輯録』第二巻(巻十八)四四四頁)

2013-01-19 02:05:48
はしょ @hassyo

まあなんにせよ史料燃えちゃうんですけどね(「有吉家の事右之子細共有之上、寛永十六年熊本火災の節居択焼失、古き書付なとも焼候而不祥事多しと云り」)

2013-01-19 02:08:38
はしょ @hassyo

「細川之家ニ有吉と云者有事世ニ不知者ハなく」ってほほうって思いますね。松井は細川さんに云われて徳川にも言われてたけど、有吉は自分で言ってますね。

2013-01-19 02:09:37
はしょ @hassyo

でも「細川の御家有つて有吉の名字さへ絶されば」は今このときまで続いているので、すごいのです。これだけで立行公の願い(?)はかなっているのです。

2013-01-19 02:10:49

米田さん家

はしょ @hassyo

米田求政の後妻は藤孝が世話をし、養女(麝香の方の姪)を嫁がせるのだけれど、藤孝の生年は1534年、求政の生年は1526年と、求政のほうが年上である。また求政の先妻の子・是政は1558年生まれで、どうも先妻は永禄十二年(1569)に亡くなった? ようである(あるいはそれ以前)。

2012-12-03 21:00:22
はしょ @hassyo

ところでこの麝香の方の姪というのが、麝香の方の妹(北畠左衛門佐教正室)の娘である。麝香の方の父・光兼は永禄三年(1560)六十五歳で亡くなっている。麝香の方の生年は諸説あるが1542年説があるから、妹というのはそれよりあとに生まれたということになる。

2012-12-03 21:02:47
はしょ @hassyo

何が言いたいかっていうと、息子と同年代くらいの女性を後妻にしたんか? ってことです……

2012-12-03 21:03:36
はしょ @hassyo

元亀元年(1570)に安産祈願に行っているから、是政に十二歳年下の弟・貞政(藤十郎・与右衛門)いるってことですね……そうやって考えると別におかしくはないな。求政が四十四のときの子どもか。ということは、先妻は永禄十二年以前には亡くなっていたということになるな……

2012-12-03 21:11:14