丹生谷先生と若島先生
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意図的誤訳って、意味ありげで誤解しないように。ナボコフの『ロリータ』の有名な一節がフランス語訳だと、直訳すると先ほどのようになることに、まあ、フランス語って不思議な言い回しになるなあ、と思っただけの話。因に日本語訳だと「殺人犯というものは決まって凝った文体を用いる」とかになります
2012-11-01 21:00:46周知のようにその言葉の直前の文を直訳すると「何年前かというとロリータが生まれる何年も前、その年の数は、私にとってその夏が人生で何回目の夏だったか、それとほぼ同数になる」という何とももって回った言い回しの文で、僕らはナボコフで時折迫られる推定の「偽の算数」に巻き込まれることになる
2012-11-01 22:06:14むろんこの算数は簡単にすぐ「あの夏」がたぶん「私」が13歳になった年だと分かるのだから「今から何年前か」は「私」が書いている今の年齢から簡単に答えが出る。しかし同時に「私」にとって「決定的なこと」がほぼ12年ごとに起こる、かのように見え始め、などと計算を始めると、「巻き込まれる」
2012-11-01 22:21:27ここのところナボコフ『断頭台への招待』をバカバカしいほど遅い速度で読んでいるのですが、深い意味はなく、仏訳、英語版、日本語を並べて読んでいるという理由で一日10ページしか進まないというだけのことです。言葉が言葉に見えなくなるという症状(!)が出て来たので一種の治療です
2012-11-11 12:37:15ちなみに『断頭台への招待』はロシア語で書かれ後にナボコフ自身と息子さんによって英語版として細部の書き直しを加えそれが完成体としては決定版とされ邦訳はその英語版によっている。仏訳はロシア語初版からの訳。だから何だというわけではありませんが、当然のことながら細部の叙述に相違がある
2012-11-11 22:10:57揚げ足取りをする気はないのだが『キング、クイーンそしてジャック』のナボコフ自身の前書きの最後、この三枚のカードにエースが来て「ジングルベル」が来ると書かれ、訳文では「10」と注が付いている。なるほどそれでロイヤルストレートフラッシュなのだが、ジングルベルは「ジョーカー」だと思う
2012-11-12 01:11:56ジョーカー、つまりはワイルドカードで「10」とする訳で、小説の構成からもこれはジョーカーでしょう。さらに前書き冒頭の訳は「奔放不覊の生きのいい、華やかな一篇」となってるけれど「謹厳にして淫らな、我がままな一篇」って感じじゃないでしょうかね、たぶん。
2012-11-12 01:20:07言い足しておきますが、『キング、クイーンそしてジャック』については僕は仏訳だけ見て邦訳について言ってるんで、英語版は見てませんので、或は僕の勘違いかもしれません。因に本書はそれこそナボコフ自身が校訂した英語版が決定稿ということになるようです。これに関しては仏訳も英語版からの訳です
2012-11-12 01:28:08ああ、こんなこと書くと「誤訳」を摘発してるみたいですが、僕自身は「誤訳」を全然気にしない読者です。日本語としてきっちり流れ意味に不自然さがなければ誤訳なんてよほどのもんじゃなければ一向に気になりません。だから今指摘した部分は何となく気になったというだけで、全体は労訳で見事なのです
2012-11-12 01:37:18言い忘れましたが、「ジョーカーだと思う」と書いたのは、端的に、仏訳では文字通り「鈴をつけたジョーカー」ってなってるんで、僕の「発見」なんかじゃありません。
2012-11-12 01:48:27例えば『断頭台への招待』を原語で呆れるほど遅く読んでいますと一語一語がスローモーションのようになり例えば単に主人公が独房で小さな桶をお風呂にして体を洗う、その場面だけで茫然としたりします。訳本だと数秒で読みすぎるだけのエピソードですが、残念ながらこの部分の修辞の見事さは訳せない
2012-11-12 18:50:49ナボコフと言えばエドマンド・ウィルソンを思い出すのだがエドマンド・ウィルソンという頑固者が僕は結構好きで、有名なカフカ論なんかははカフカに不当ということで反発が多いが、この誤読を恐れない怪物的な読書家の熱血の頑固さからのカフカ論は首肯し難い断定において結構痛快で、嫌いじゃないのだ
2012-11-13 03:08:05ウィルソンはあれほど深切に愛したナボコフに対してすら仮借ない・・・何せナボコフ以上にロシア語に通じ?ナボコフを遥かにしのいで「全て」を読み切り、この一筋縄では行かない作家を対等に罵倒ししかも真に愛することの出来た唯一の男だった。確かフィッツジェラルドの『崩壊』を愛した男でもあった
2012-11-13 03:16:42ナボコフの未完の遺作『ローラのオリジナル』は横長のカード風の一群のノートとして残されているが、それを見ていると、ナボコフの書き方が、大きな構成はともかく、短い細部をカードのショットの長さで繋いで行くように進められていたことが分る。ショットを連鎖させ、その間をゆっくり「埋めて行く」
2012-11-14 18:38:45・・・ちょっと風邪でダウンでいつも以上に内容希薄、すいません。ナボコフにかかると例えばサルトルの『嘔吐』なども愚作になるのだが、しかし或る意味・・・あくまでナボコフの位置から見る限り、その批評は「精確」だとは思う。因にサルトルはナボコフの『軽蔑』が出たときに早々書評しているが・・
2012-11-17 14:38:44ああ、『軽蔑』としたものは日本では『絶望』と訳されているようです。サルトルの批評はいつもながら要所を掴んでの慧眼は見事だけれどこのナボコフ批評に関してはその論評当時、小説家らを巡る当時のソ連の現状についてサルトルの楽観的無知を示して興味深いことは誰もが知っている。ま、時代でしょう
2012-11-17 14:39:04サルトルはナボコフに対して「ソ連に留まって、その中で」書き続けているオレーシャを評価して対置しているが、その同時期、オレーシャはと言うと作品検閲の強化の中で次第に、失意の中で?政権制作迎合的な駄作駄文を「心ならずも」書かねばならない窮迫の中にいたのだった
2012-11-17 14:47:00これは単に僕の無知からの「喜び」ですが、ナボコフはクノーの『地下鉄のザジ』をフランス風ロリータの最良の笑劇として気に入っている。僕はずっとロリータはザジに似ていると思っていたので、確認が出来た「喜び」ですね。ロブ・グリエを最高と言っていたのも・・・シモンは知らなかったろうか・・・
2012-11-18 00:32:53これまたナボコフ好きなら周知のことで、彼はフォークナーを心底嫌い、エリオットをわざわざ「トイレット」と綴るほど嫌っていた。同じケンブリッジ出で意外にエリオットを嫌っていた人をもう一人知っていて吉田健一さんはエリオットを訳す一方で彼の仕事が詩をつまらなくしてしまったとも書いている筈
2012-11-18 00:47:34・・・ナボコフの「文学評価」がかなり偏った我がままなものだったということは親友だったウィルソンが度々難じていることですが、前も書きましたが、ナボコフの好き嫌いには明白なセンサーが働いていて、その視点に同調する限り非常に「厳格」なものだったと思う。因に僕は『八月の光』は熱愛します
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