丹生谷先生と若島先生
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・・・『八月の光』は熱愛しますが『響きと怒り』とかその他には少し留保を感じます。妙な説教臭さと大仰な心理拡張、どこか座りの悪い「啓示性への憧れ」の鈍重さみたいな感じと言えばいいか。まあ、グリッサンの『ミシシッピ』のような見方もあるし、やはり偉大な小説家だとは思いますが・・・
2012-11-18 02:28:32「偉大さとはどこか間が抜けているということでもある」と誰かが言っていたような気がします。逆に言えばナボコフには「間が抜ける」ということが我慢ならなかったのかもしれません・・・ああ、風邪の熱でうなされて思いつきを書いているだけなので妄言お許しを・・・
2012-11-18 02:31:12因みに、周知のようにウィルソンはオースティンとディケンズに関しては、「思っていたほど悪くない」とナボコフに言わせることに成功しています。
2012-11-18 02:36:30一方ウィルソンはナボコフを偉大な作家であると認めることにやぶさかではなかったけれど、一方、破綻をも呑み込んでしまう「巨人性」の欠如をナボコフに感じていたのかもしれません。例えば『アーダ』をついに読み終える気力がなくなったと書いたときなど・・・或は初期の作品に対する冷淡さ・・・
2012-11-18 02:41:48三島由紀夫に菊田次郎シリーズとでも呼べる三本ほどの短篇がある。主人公の名が同じで、事件は何も起こらず、多分三島が取材やらで行った土地、その旅だけを書いた淡々とした掌編で、しかし三島の作品系譜の中では不思議にしんとした「独り言」の調子で統一されたもので昔から変に印象に残っている
2012-11-20 23:48:33なんでそれを不意に思い出したかというとナボコフ『断頭台への招待』の末尾、主人公が広場の断頭台の傍らからポプラ並木を見る場面があり、そしてその中の一本だけが不思議にゆっくりと揺れているのを、見つめる場面があったからだ・・・
2012-11-20 23:51:55・・・そして、三島の菊田次郎シリーズの一つ『死の島』の冒頭近くに、車窓から見た風景の中で、一本のポプラが身をよじるように揺れるをを見つめる場面があるのである。「なんだろう、あの一本のポプラの、あの不思議な身振りは?」という独り言でその場面は終わるのだが、ナボコフの一場面とそれが・
2012-11-20 23:54:59・・それが結びついて思い浮かんだだけのことである。しかし、不意に一本だけ揺れるポプラの木、その一種の心象には何があるのだろう。そうした神話的連関があるのだろうか・・・まあ、そう思っただけのことです。
2012-11-20 23:56:53ところで『断頭台への招待』の仏語版の(ということは露語原文も?)一カ所全く意味が分からない一行がある。邦訳を見るとそこにはその一行が無く英語原文にもない。何だろう? 敢えて直訳すると「渓谷に鏡の付いた大きな家具が見ることが出来た、それは産みの苦しみの中で岩に背を向けている」となる
2012-11-21 00:03:34前後から言ってもこの一行は意味が分からない。何かの比喩的、暗喩的或はその他の言い回しなのだろうか。そして露語原文にあるとして、英訳のさいに何故ナボコフはこの一行を削ったのだろう? 自分でも意味不明だったからか。或はロシア人にしか分らない特殊な言い回しだからか?
2012-11-21 00:05:48まあ「自作翻訳の研究」という文学研究のジャンル(!)があって、ナボコフはベケットとならんで中でも有名な例だから誰かが調べてるんだと思います。
2012-11-21 00:16:05先ほどナボコフの『透明な対象』の冒頭の父親の遺体の処理を巡るツィートを即刻消しましたが、深い意味は無く、訳書を見たら「火葬」にしたと解釈しているようで、まあそれでいいんでしょうと思ったからです。
2012-11-22 15:25:40僕が拘ったのは「叔父」が火葬を第一に勧めたと書かれた後に主人公は「一番勧められない方法で遺体を措置した」と書かれているからです。まあ「キリスト教国(イスラムでも)」では火葬は一般に嫌われて来た歴史があり主人公の「一番勧められない」というのは叔父の言葉とは別ということなのでしょう
2012-11-22 15:29:10ああ、誤解なさらぬよう、『透明な対象』の邦訳にいちゃもんをつけているわけじゃありません。特に若林さんは日本のナボコフ研究の第一人者のお一人、抜かりがある筈もないでしょう。もっとも、若林さんの日本語はナボコフには少しカサッと乾きすぎていいるように感じますが、これは好みの問題です
2012-11-22 22:20:43しかし第六章に不意に現れる「ロシア作家」のイメージは注には「ドストエフスキーを思わせるが確証はない」と書かれ、むろんそうなのですが、ならこの人物はドストエフスキーにゴーゴリを混ぜたような、とも言えて、ドイツ語が得意という点でもそう見えるが、要は、あんまり意味ない注だということです
2012-11-22 22:27:10いやどうも難癖つけてるみたいに見えますね。熱で何だかぼんやりイライラしているので八つ当たりだということです。なんで他にも締め切りやら用事やらがあるのにナボコフの仏訳と原書と翻訳とを床に散らかしまくって意味ないことにイライラしているのかにイライラしているという悪循環。
2012-11-22 22:53:56「小説を書くことは読者とのゲームだ」というようなことをナボコフが言った時、ウィルソンは、その仕掛けは大方の場合たかがしれていると、辛辣に応答している。ナボコフを愛したウィルソンは、その手の「ミスティフィケーション」をナボコフの愛すべき、しかし余計なポーズだと感じていた気配がある
2012-11-23 14:08:22ナボコフのテクスト!が巧緻な「企み」に満ちていることは誰もが指摘し、その翻訳も、それを訳出する苦労話に満たされる。それは仕方の無いことだろうし、読者もそれを嘉納してナボコフを読む。しかし同時にそれがナボコフを普通に読むことから読者を遠ざけてしまっているように見えるのも事実だろう
2012-11-23 14:12:17例えば最大の長編『アーダ』が冒頭から「写し間違い」のようにしてトルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭を逆さまにする時、しかし慣れると、そんな児戯めいた遊びがむしろこの意外に(!)真摯な長編の余計な傷に感じられないこともないのだ
2012-11-23 14:26:40誤解されると困りますが、僕は別に誤訳やらを探そうとしてナボコフを仏訳やら原書で読んでいる訳ではありません。フランス語で小説類を読み慣れないので(時間がかかってしまうので翻訳があればそれで読んでしまう)、ちょっとゆっくり読もうとしているだけの哀しい現実です・・・
2012-11-24 03:25:34それでも、仏語でニュアンスに迷うと日本語訳を見るので、そうすると意外に迷ったところが訳し抜けていたりすることに戸惑うということになります。『透明な対象』では、何故か副詞が訳し抜かされていることに戸惑う。「悲しげに」とか「嬉しそうに」とかいう副詞が抜けていたりするのです。
2012-11-24 03:28:27無くてもさして困らないところならいいんですが、ちょっと微妙なニュアンスがあるだろうところで抜ける。面倒だから何処とはいちいち言いませんが・・・じゃあ余計誤解されるか。例えば邦訳単行本で56ページ、主人公がジュリアとの間抜けた情交の後でグラスの酒を取りに行くところ・・・
2012-11-24 03:35:47翻訳では「ヒューが一人はしゃいで飲み物をとりに行くと」となっていますが原文では「a rather forlorn show of jauntiness」っていう副詞になってるんですよね。つまり「悲しげにも見えるはしゃぎ方で」とかいう感じでしょうか。ちょっとニュアンス違いますよね
2012-11-24 03:48:33あるいはこれまた単行本『透明な対象』の77ページ、アルマンドが、スキーを二人だけのデートと間違えて来たヒューの服装を見て、その格好じゃ一緒に行けないと言うところで、原文では「she gaily suggested~」となっていますが、邦訳には「gaily」という副詞が訳されてない
2012-11-24 03:57:33これは人や物が「どう見えるか」ということの煉獄?を一つのモチーフにしているだろうこの小説としてはちょっと気になる訳し落としに感じます。何しろ若島正さんの訳ですから、こう訳したのには訳者の周到な意図があったのかもしれないと、考え込むjことになるわけです。
2012-11-24 04:09:54