千葉氏と相馬御厨
- tsunetane_bot
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―相馬御厨―
あまり有名というわけではありませぬが千葉氏にとっては非常に大事な荘園なのです。
私が源頼朝殿の挙兵に参加した事は有名………………とは言えませんね。
頼朝殿が石橋山の戦いに敗北、その後安房に上陸して再起を図られてから鎌倉幕府の樹立するまでの間ですら私の名前はせいぜい補足されるかされないか…。
故に前半生、厳密に言えば挙兵に従うまでのおよそ50年間の私の動向は一般的にほとんど知られていないのですよ。
「千葉常胤って平氏なのになんで挙兵に従ったの?」
そういった疑問が投げかけられる時もあるでしょう。
しかし全ての謎はここにあります。相馬御厨を巡っての諸氏との対立こそが私たち千葉一族の始まりでもありました。
前置きはこれくらいにしておいて…。それでは説明致したいと思います。少しでも私について知って頂ければ幸いにございます…。
さて、三浦胤義殿に「千葉殿も相馬御厨などについてまとめてみては?大河の記憶があるうちに!」と言われたので自分が色んな意味でお世話になった御厨を語ってみます。大河では名前出たのか否かも曖昧でございますが…w
2013-01-08 21:48:09そうなんです、三浦胤義殿から相馬御厨についてまとめては見ませんか?というお話がありました。
相馬御厨について一度普通に語ってもみようかと思っていましたがどれほど興味を持ってくださる方々がいるか分からず結局普段のようにランダムでツイートを流しておりました。
しかし直々に「千葉殿も…」との声を頂いたのでこれを機会に今まで不明瞭な感じであっただろう相馬御厨論争についてまとめてみようと思い立ったのが始まりでした。
因みに胤義殿は自身に深い関係のある大庭御厨についてまとめられております。(私に御厨の話が来たのもこれがきっかけですね。)興味深いお話なので是非ご一読を。
そして私たちをきっかけに大蔵合戦についてまとめられた畠山重忠殿(呟きはお父君の重能殿)のまとめも是非読んでみてはいかがでしょうか。こちらも勉強になりますぞ!
ひとまず紹介し終えたところで、では千葉氏と相馬御厨の関係をお話致しましょう…。
まず相馬御厨とは現在の千葉県柏市や我孫子市、流山市と茨城県の取手市や守谷市を含む広大な荘園でありました。伊勢神宮の荘園でここに御厨は寄進されていたのです
2013-01-08 21:52:19相馬御厨が千葉氏所有となるのは我が父、千葉常重が叔父であり養父でもある平常晴から譲られたのがきっかけです。常晴は(大河にも出てました)実子の常澄と折り合いが悪く兄の常兼(常重の父)から養子として常重を家督を譲りました。
2013-01-08 21:56:56そして父が相馬御厨を譲られ「以後、自分の子孫が継承する」などの条件で御厨を寄進し、息子である私に御厨が譲られました。この時私は16~18歳でしたね。父上はまだご健在でしたが一応私にある程度委ねられ、「介」としての一歩を踏み出しましたが数年後、苦労と悲劇の数十年が始まります…
2013-01-08 22:01:291136年7月15日、父上が官物未納の疑いで逮捕されてしまうのです!さあ大変!ここに国司の権力を振りかざした藤原親通殿はこういうのです「未納の代わりに相馬御厨と橘郷を私に譲れ」と。目代の紀季経殿に命じ譲り状(領有権の証拠みたいなものですかね)を書かせ責め取り横領してしまうのです
2013-01-08 22:07:15もう、父上のおバカさん!………とそんな口利いてはいけませんね
ちなみに未納の官物は「准白布七二六段二丈五尺五寸」であったとか。
といってもどれくらいかはすぐには予想がつきません、言葉の意味的に…w
義朝殿、どう出るか!………父上から譲り状責め取っちゃったんですよ…w国司にあるはずのものが義朝殿にも奪えたのは謎なのです…。義朝殿は上総の御曹司で養子に御厨譲られたの不満と思った常澄殿が御厨奪還を狙おうと義朝殿に頼んだのが通説らしいです。いずれにせよ、私の敵は増えました…
2013-01-08 22:13:34いや~さすがは東国に勢力を張っただけのお人、油断なりません(笑)
ところでツイートでは説明を省きましたが藤原親通殿が紀季経殿に書かせた譲り状は「押書」であるのに対し、義朝殿の譲り状は「圧状」であったとされます。
どんな違いがあるのかというと…。
押書:合法的な契約のされた文書
圧状:違法な文書
簡単に説明するとこんな感じです。
私は押書を受けて後述の通り未納であった官物を納めますが圧状の場合は裁判などにおいても否定されるような存在でした。同じ権利を奪った文書といえども言葉が違うだけでその性格は正反対です。
義朝殿は神威を恐れ伊勢神宮に寄進されました。それをチャンスと思った神宮側が「そのような圧状で勝手に寄進しておるぞ!」と神への寄進を拒みました。
その結果、相馬御厨支配の権利が消え失せた義朝殿は自分の主張した権利を破棄し「避状」というものを提出しなければならないという具合に至ったのでした。
そんな感じでしたので子の頼朝殿に従う理由の謎が更に深まっていきますね~。
ですがまだまだ話は続きますぞ!
義朝殿が次にした事は御厨の寄進です。しかし史料には義朝殿は御厨の下司職(現地で実務を取る下級職員)となった事実は無いようですが。事があらぬ方向へ進んでいるのは確かです。私は御厨を譲られた身として対策を行います
2013-01-08 22:18:41まずは父上の未納分の官物を納めること。これにより一応相馬郡の確保は出来ましたが橘の荘園の方がまだでした。官物が足りなかったのでしょうか。とにかく相馬は奪還成功。次に御厨寄進です。義朝殿と寄進範囲が被ったのか別々なのかは色々ありますがとりあえず御厨の範囲は拡大致しました。
2013-01-08 22:23:50私と義朝殿、二人の人物が寄進を致しましたが寄進を受けた側にとっては「変な争いさえ起こらなければ納められる官物が増えるだけだしよくね?」と思ったのでしょう、寄進に関してこれといった事はありません。
↓ちなみに私が納めた官物は以下のとおり
上品八丈絹:参拾疋
下品:七拾疋
縫衣:拾弐領
砂金:参拾弐両
藍摺布上品:参拾段
中品:五拾段
上馬:弐疋
鞍置駄:参拾疋
これもまた分かりづらいですが参考までに。
ここらへんで私と義朝殿の対立はひとまず終了致します。どういう折衝があったかは不明ですが。まあたとえ御厨の寄進範囲が被ったとしても納入物は増すので上から何も言われる事はありません。この後私は義朝殿の郎党として保元の乱に参加する事になります
2013-01-08 22:27:43えーっ……、ここで全て終了したわけではありません。こっから先、更にタチの悪いやつが現れるんですよ!…っとその前に、義朝殿は調停のため御厨に訪れた説もあります。まあ私にとってはごめんなさい、どう見ても侵略者にしか思えず…
2013-01-08 22:30:59あっ、ちなみに保元の乱もあれですよ。後白河天皇側の武士は完符によって動員された公式的な武士なので必ずしも義朝殿との和議からの主従関係とは言い切れませんよ
2013-01-08 22:34:14こちらの説も有力だと思います。
私は保元の乱には参加致しましたが平治の乱に記録は見られません。
上総広常殿はどちらにも参加しているようですが。上総氏は千葉氏よりも源氏との深い繋がりがあると思いますよ。
さてさて、御厨論争の前半が終了致しました。
お次は後半、私が官物を納め寄進し、義朝殿との折衝を上手くやり終えただけでは終われませんでした…。
そしてなんといってもここからが重要です。お見逃しなきよう…。
保元の乱を経て紆余曲折あり平治の乱。ここで皆様ご存知の通り、義朝殿は敗北し後々風呂場で殺されてしまいます。国衙は義朝殿を謀反人とし、その謀反人の所領として相馬御厨を収公しちゃいます。私は御厨が義朝殿の領地では無いと訴え在庁官人が現地調査に来て裁定が下されるはずだったのですが…
2013-01-08 22:39:08お隣の常陸国から佐竹義宗という人物が現れます。義朝殿の死を契機としたのでしょうかね、譲り状をがっつり持って領有権を掲げて来ましたよ。国司の親通殿が次男の親盛殿に譲り、「匝瑳北条の由緒」として義宗殿に譲ったそう。
2013-01-08 22:44:24彼は「千葉常胤は源義朝の郎党なんだから謀反人の一味だろ!?」と言い私の領有権を否定しに来ました。何を言っているのでしょうか、私が父上の未納分の官物を納入した時点で私に御厨領有の権利が移っています。つまり義宗殿がそう言いながら掲げている譲り状は本来意味を持たないのです
2013-01-08 22:48:57