私の「体罰」に対する思い
- minna_no_kinop
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1.大阪市内の高校で発生した「体罰が原因とみられる自殺」について、私は今、複雑な感情でいっぱいです。なぜなら、私は体罰については諸手を挙げて容認するわけにはいかず、一方で全くもって体罰を禁じてしまうのも…という気持ちもあるからです。
2013-01-17 21:12:072.容認側の思いとしては、体罰を全面的に禁じることによって、生徒は体罰禁止を盾に取り「殴れるものなら殴ってみろや、へへへ」と簡単に"悪ガキ"が悪戯やイジメを繰り返すようになる。すなわち生徒は教師をなめきる。これでは学級崩壊に至るのも無理はない。よって場合には体罰も必要だ、と。
2013-01-17 21:14:133.一方、反対の思いとしては、体罰は体にも心にも傷を残す。体罰で問題が解決したという話は聞いたことがない。第一、明治時代の遥か昔から教育において体罰は禁じられている。軍隊でさえ体罰は無かったと聞く。体罰は戦時中に勝手に作り上げられた忌むべき行為だ、と。
2013-01-17 21:16:094.正直なところ、私はある程度は体罰を受けて育ってきた人間です。これは揺るがない事実です。 しかし、どんな時に体罰が執行されたのか、どんな規模のものだったのかについては、少なくとも例の事件の場合に比べれば格段に軽く、正当性もあったように思います。
2013-01-17 21:18:395.私の体罰経験は主に中学生の時が最大でしたが、その執行理由は、宿題忘れ、教材忘れ(いわゆる忘れ物)が主であり、誰がどう見ても「約束破り」「授業へのやる気を疑わざるを得ない」という場合に限られました。
2013-01-17 21:20:316.少なくとも、試合やコンクールの出来など、人によって評価がまちまちになりかねないものについては、決して体罰を与えませんでした。部活においても怒号や叱咤激励が飛ぶことはあっても、体罰が行われているのを見た記憶は全くありません。
2013-01-17 21:21:487.また、体罰の内容も、チョークを入れた箱で"軽く"頭を"一発だけ"叩くとか、一定時間(10分前後)正座させるとか、頭のツボを刺激するとか、およそ体に傷や痣(あざ)が残るような規模のものはありませんでした。
2013-01-17 21:23:408.すなわち、私が「愛のムチ」と認めても構わないと思う体罰は、①執行理由が、誰がどう見ても納得できること。②痛い思いはしても、傷や痣が全く残らないほど軽い規模であること。③体罰を執行した責任として、二度と体罰を執行しなくて済むように注意徹底を呼びかけること。
2013-01-17 21:25:539.④③に加えて、叱るだけでなく日頃からいいところもきちんと見つけ、誉めて伸ばすことを習慣にしていること。 これら4つの条件が全て満たしている事が、「愛のムチ」と認める大前提です。一つでも外れていれば「不当な体罰」と見てよいと私は思います。
2013-01-17 21:27:4610.例えば、体罰執行理由がいかなる悪い事であろうと、生徒の体に傷や痣が残ってしまうほどになりますと「行き過ぎ」であり、不当な体罰、折檻(せっかん)と見てよいと思うのです。
2013-01-17 21:29:0811.しかし、なによりも大切なのは、やはり日頃の教師としての姿勢、態度が重要ではないかと思います。日頃から"かっか"と怒りを溜めこんでいるような態度を見せていては、やはり軽いビンタでも体罰と捉えられて仕方ないでしょう。
2013-01-17 21:30:4312.また「普段優しい先生ほど怒ると怖い」という言葉があるように、普段は優しく接し、生徒が明らかに倫理に外れた行いをしたと分かった時に初めて体罰を執行することで、生徒は「して悪い事」を思い知り、体に刻みこむのです。もちろんここで言う体罰も傷や痣が生じるほどの規模ではNGです。
2013-01-17 21:33:1113.愛のムチという体罰はあくまでも「最終手段」「いやいやするもの」であって、かつ生徒との信頼関係があってこそのものであり、日頃からしていてはいけないものです。「本当は体罰なんてやりたくないんだよ」ということを態度(指導)によって示すことです。
2013-01-17 21:34:4814.そして、先生自身もいち教師として、体罰を賭けた決まりごと、約束は100%守っていることを生徒に示すことです。
2013-01-17 21:35:5115.悪を倒す気持ちを出せども「弱きを助け、強きをくじく」は人間の大前提です。愛のある叱りは、おいそれと簡単にはできない深いものなのだ、と私は思います。(了)
2013-01-17 21:37:00