快は正の価値を(そして価値的にはそれのみを?)含意するか

価値論には快楽説(快がそしてそれのみが価値の源泉である)という立場があります.それを補う形でさまざまな価値の理論が生まれましたが,どの理論も快が価値ではないとは言わないように思います. しかし,快と正の価値とはほんとうに不可分なのでしょうか.
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at_akada @at_akada

@pubkugyo ある可能世界w_0 においてわたしが不在の場合、w_0 における「わたしにとっての善」は0であるという風に設定すると、件の比較は可能になります。ただしそこは0ではなく、undefinedに設定すべきだという反論もできます。

2010-08-30 09:59:30
at_akada @at_akada

@pubkugyo おそらく @pubkugyo さんはundefined としてるんでしょうね。ベナターの「誕生は常に害である」や死の害ともかかわる重要な論点だと思います。

2010-08-30 10:01:14
at_akada @at_akada

@pubkugyo ごめん、出社する途中で考え方が変わりました。「w_0 におけるx にとっての善」が0なのかundefinedなのかというまとめはあまりよくなかったですね。

2010-08-30 11:09:56
at_akada @at_akada

@pubkugyo むしろ「w_0におけるxにとっての善」を「w_0におけるxの対応者にとってのw_0の善さ」と解釈すべきかどうかという風に定式化した方がよかったように思いました。

2010-08-30 11:12:10
kugyo W @pubkugyo

@at_akada 確かにBradleyは「生まれる(存在する)ことは選択肢,それも良い選択肢」と考えてるみたいですね.「w_0におけるxにとっての善」を「w_0におけるxの対応者にとっての善」と同一視するとして,x(の対応者)がいない世界についてはやはり問題になる気がします.

2010-08-30 12:27:24
at_akada @at_akada

@pubkugyo わかりにくくてごめんなさい。その解釈だと問題がでるので、おそらく@pubkugyoさんはその解釈を取ってるんだろうと思ったんです。しかしかならずしもその解釈を取る必要はないのではないかというのがわたしの意見です。

2010-08-30 13:10:48
at_akada @at_akada

@pubkugyo ちょっと考えたのは、わたしが存在しない世界の内、緑一色の世界と赤一色の世界の2つを比較し、「緑一色の世界の方がわたしにとって善い」ということには意味があるんじゃないかと思いました。

2010-08-30 13:12:35
at_akada @at_akada

@pubkugyo この場合、「わたしにとって善い」は、単に「わたし」という視点を固定しているだけであり、該当の世界について、その世界に存在するわたしの利益を考慮しているわけではありません。

2010-08-30 13:13:48
at_akada @at_akada

@pubkugyo 一方「わたしが存在するかどうか」はわたしにとっての重大事なので、わたしが存在する世界と、わたしが存在しない世界を比較し、「わたしが存在しない(生まれない)世界」はいちじるしくわたしにとって悪いという風に考えることはできるんじゃないかと思いました。

2010-08-30 13:15:06
at_akada @at_akada

@pubkugyo ただ、その場合、わたしが生まれないから価値が0という風に単純に設定できるわけじゃないので、価値が0かundefinedかという最初のまとめはよくなかったなあと考え直したのでした。

2010-08-30 13:16:38
kugyo W @pubkugyo

.@at_akada 私と因果的に断絶してても、ある事態が成り立つことは価値となるか、難しいですね。何か選択したあとで、実現しなかった選択肢を考えたとき、それらもよい場合より、むしろ選ばなかった(他の可能世界で成立してる)選択肢は悪い場合のほうが、より望ましいような気がします。

2010-08-31 19:14:46
at_akada @at_akada

@pubkugyo たしかに、快楽説をとると、わたしがいない世界における「わたしにとっての価値」は考慮しがたいですね。ただ「もしわたしがその世界にいれば感じたであろう快」を考えることくらいはできそうな気もします(快楽説論者がこれを認めるかどうか不明ですが)。

2010-08-31 20:48:17
at_akada @at_akada

@pubkugyo あと後者の実現しなかった選択肢については、典型的にこれが表われるのはいわゆるpreventing harmの事例ですね。「目の治療を妨害する」とか。本人の状態は変化していないのに、他の選択肢がよいものであるがゆえに害になる(少なうともそう見える)。

2010-08-31 20:50:36
at_akada @at_akada

pubkugyoさんとの議論はかなり進展した気がしているが、第三者が追うのは大変困難な状況になりつつある。そしてわたしのこれまでの立場を否定し、@pubkugyo さんの立場を擁護する議論を思いついてしまった。

2010-09-01 00:11:22
at_akada @at_akada

@pubkugyo kugyoさんの立場を擁護する苦行主義を思いついてしまったので説明します(=文脈主義的苦行主義)。まず「害は出来事ではなく、出来事の記述によって個体化される」という立場を考えます(害の文脈主義と呼びます)。この立場の擁護は最後にまわします。

2010-09-01 00:17:04
at_akada @at_akada

@pubkugyo 害の文脈主義をとる苦行者は以下のように考えます。(1)「苦痛」という記述で指示される出来事は、つねに「克己」という記述でも指示される(vice versa) / (2)「苦痛」という記述のもとでは出来事は内在的害だが、「克己」という記述のもとでは内在的益である

2010-09-01 00:20:46
at_akada @at_akada

@pubkugyo ここまでで、同一の出来事が、ある記述のもとで害、ある記述のもとで益という立場が成立します。最後に、困難ですが苦行者は以下のようにも考えます。(3)何らかの総合的判断において、苦痛と記述される出来事には、益の方が多い。

2010-09-01 00:25:11
at_akada @at_akada

@pubkugyo 以上のように考えれば、一応、苦痛が内在的(かつ部分的)に害であり、しかも内在的(かつ総合的)に益であると言えるように思いました。欠点は害の文脈主義をとると(3)の説得力があまりないところです。

2010-09-01 00:28:09
at_akada @at_akada

@pubkugyo 最後にまわした害の文脈主義の擁護をつづけます。(a)まず、害に関して反事実的比較説をとります。ある出来事の害は、もし仮にその出来事が起こらなければ起きたであろう出来事の価値によって測られます。

2010-09-01 00:31:02
at_akada @at_akada

@pubkugyo (b)つぎに、様相に関する文脈主義をとります。様相的言明は文脈依存的なので、同一物であっても記述の仕方で変化することがあります。

2010-09-01 00:31:19
at_akada @at_akada

@pubkugyo (a)も(b)もそれなりに人気のある立場なので、擁護はしやすいでしょうし、両方あわせると害の文脈説が出てきます。あんまり擁護になってないですが、「とりあえずそんなに胡乱な立場ではない」と言えれば満足なので、擁護終了。

2010-09-01 00:32:36
at_akada @at_akada

@pubkugyo しかし、この議論の欠陥はすでに指摘したように(3)にあります。「同一の出来事が、複数の内在的価値を持つ」は価値の共約不可能を含意し、「総合的判断において苦痛はよい」は価値の共約可能性を含意しがちなので、両方を認めるのは難しいのではないかと思います。

2010-09-01 00:36:11
at_akada @at_akada

@pubkugyo 何か思いつきの走りがきすぎて、「害/益」と「善/悪」を混同してる気がしてきましたが、長くなったのでこんなものでやめます。

2010-09-01 00:41:05
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