神々しく世界制作するTL

下記まとめからの派生含む 続・シェリング話 http://togetter.com/li/32014 下記のまとめとかなり重複。こっちの方がコンパクトでいいかも。 ライプニッツにおける神の自由について http://togetter.com/li/44450 続きを読む
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Adam Takahashi @adamtakahashi

この「モノ的な存在者」というのは、「必然的」でなければならない(無限遡行になるから)。このような「存在者」こそが「モノの最終的な ratio」であり「神」と呼ばれる。ゆえに、「存在すること」が「存在しないこと」に対して優位を占めるのかということの原因がある。すなわち、

2010-08-25 00:09:37
Adam Takahashi @adamtakahashi

「必然的な存在者とは、存在を与えるもの(existentificans)なのである」としている。まとめると、デカルトにおいて隠れていた論理はライプニッツにおいて詳しく語られている。「何らかのもの」が存在するということは、それが存在するラティオがあるということを含んでいる。

2010-08-25 00:13:03
Adam Takahashi @adamtakahashi

ライプニッツにおいて「何らかのもの」があるということは、それを「存在させる」ところの「必然的」かつ「モノ的」な存在者があり、その存在者において「モノ的な理由」があるということなのである。デカルトが明晰判明な認識から製作者としての神を導くのは、このライプニッツと同じ論理に基づいて

2010-08-25 00:16:09
Adam Takahashi @adamtakahashi

いると思われる。このライプニッツがいう「大原理」を、デカルトも踏まえていたのだけれど、この点について山田晶が「トマス・アクィナスにおける aliquid の用法について」という大変マイナーな論文で、次のように言っていることは参考になると思う。

2010-08-25 00:19:17
Adam Takahashi @adamtakahashi

というか、その前に山田晶は『トマス・アクィナスのレス研究』という馬鹿げた(ほめ言葉)著作において、「デカルトにおいて、モノ(res)の問題は解決されたのではない。ただ、問題にされないという仕方で背後に退いているだけである」(728頁)という名言を残している。

2010-08-25 00:22:09
Adam Takahashi @adamtakahashi

で、前述の論文で、山田は「この世界に存在する全てのものは、その各々が他の全てのものに対して、aliquid-aliud の関係に立ったのである。そして、aliquid は res であり、aliud も res であるから、この世界は相互に動かし動かされている無数の res の

2010-08-25 00:24:46
Adam Takahashi @adamtakahashi

無数の res のはたらきあっている世界として、一つの realis な世界、すなわち実在的世界を形成したのである」と述べている。

2010-08-25 00:25:51
Adam Takahashi @adamtakahashi

山田の狂気すれすれの「奇書」は、トマス・アクィナスからデカルト(における「明晰判明な認識」と「製作者としての神」の関係)を経て、ライプニッツの(スピノザを経由した)存在論を考える上で参考なると、修士の時の演習で感じていたものでした。

2010-08-25 00:31:30
@assazi

ご返信有り難うございます。一番気になるのは知性の対象、永遠真理の所在です。が、この辺にしておきます。adamさんおもすれー。

2010-08-25 00:26:37
@assazi

【カントとベルクソン】先生(カント八段)と私(カント二級)の対話。私「ベルクソンはカントをどの程度読んでいたかTL上で話題になったのですが、本当はどうなのでしょう」。先生「『カントを読む』と言っても色々ある、ルヌヴィエは『ドイツ人はカントの読み方が分かっていない』と言っている」。

2010-08-27 12:17:10
@borujiake

キター!三つ目先生最高。期待しています。

2010-08-27 12:19:15
@assazi

【注釈】杉村靖彦氏によるとフランスのkantismeという語の用法は極めて特殊なものだそうである。つまりそれはカントの文字ではなく、精神(思考様式)をあらわす。したがってそれは勢い「カント哲学の全体を極度に圧縮」したものとなる。「カントの精神がカントの体系を超えて過激化される」。

2010-08-27 12:33:09
@assazi

(続)ラヴェッソンからベルクソンへ至るフランス・スピリチュアリスムは「しばしばカント哲学に対立的な態度」をとる。しかしその源泉をなすビランの思想は、カントとは別経路で形成されたものである一方で、同時に「カント的モティーフを移植しうる土壌」という役割を果たしている。

2010-08-27 12:40:14
@assazi

(続)杉村氏によると、この「ビラン的土壌へのカントの移植」が「フランス反省哲学なる思潮の成立基盤であり、そこに見られるkantismeの独自な展開を可能にした」のである。こうして杉村氏は、その展開の極限をナベールの思想に見ようとする。

2010-08-27 12:46:59
@assazi

【まとめ】そういうわけで、どうもカントが《仮想敵》とされても、フランスにおいてそれはカント哲学の単純な否定を意味するものではなく、むしろ特殊な仕方での肯定でもある、ということのようです。以上、引用は論文「現代の宗教哲学とフランスのkantisme」に依りました。ご参考まで。

2010-08-27 12:55:08
@assazi

【付】『カント事典』「フランス語圏のカント研究」には、ビランについて「フランス哲学のカント論に一つの基本的視点を与えた」とし、「カントにおける形而上学的なもの経験との分離の後、なおも精妙な仕方で経験と形而上学の結び直しを試みる立場がフランスに多い背景には、この伝統がある」とする。

2010-08-27 13:19:58
@assazi

カントの文字と精神の区別といえば、フィヒテである。岩田文昭『フランス・スピリチュアリスムの宗教哲学』 http://ow.ly/2vxJZ には、そういう意味でドイツ観念論とフランス反省哲学をパラレルに考えるべきという提案がなされており、心揺さぶられたことをふと思い出した。

2010-08-27 14:11:48
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