渡邊芳之先生@ynabe39の「そもそも「ニセ科学」が問題になるのは「科学だと言われればなんでも信じてしまう」人がいるからではないのか。」

「当たろうが当たらなかろうがデマはデマ」というのと似たものを感じる。 けっきょく倫理とか道徳の話になってしまう。 全部デマの議論と同じ話だ。 by 渡邊芳之
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沼崎一郎 @Ichy_Numa

そんな「1、0」の区別は不可能ですよねえ。 MT @ynabe39 それで私が前からいっているのは「科学やその成果は疑わずに信じてよいがニセ科学だけは疑わなければいけない」ってのは無理だろう,ということです。

2013-02-22 21:05:15
渡邊芳之 @ynabe39

そういう意味ではほとんどの人は「馬鹿と思われて」いますよね。 RT @hokkyoku_syonen: メカニズムについて何も言わずに「科学的に証明されている」とだけ言われた時「ああ、馬鹿だと思われているんだ」と感じてその人を信じられなくなりました。

2013-02-22 21:06:46
渡邊芳之 @ynabe39

これは前にも紹介いただきましたが同じ方かな? RT @mototchen: アメリカの科学リテラシー資料があるのでお知らせします「すべてのアメリカ人のための科学」SCIENCE FOR ALL AMERICANS http://t.co/1IDCQkUYnJ

2013-02-22 21:08:32
沼崎一郎 @Ichy_Numa

「疑う」というのは、「信じない」と同じではない。入手できる限り、理解できる限りの「事実」と「情報」に照らして、「どの程度まで信じてよいか」を見積もることだ。

2013-02-22 21:09:03
渡邊芳之 @ynabe39

@Ichy_Numa そうはいっても「疑う」ことの帰結の中にはとうぜん「信じない」も含まれますよね。まあたしかに知らなければ疑わないですがから「信じる」ことが「疑わない」ことの帰結とは限りませんが。

2013-02-22 21:10:44
mimon @mimon01

@ynabe39 私は技師ですので、科学は「ありがたく利用させてもらうもの」と、考えています。もちろん、利用した結果に関しては、自らの責任です。

2013-02-22 21:11:10
渡邊芳之 @ynabe39

@mimon24 それでまったくかまわないであろうと思います。

2013-02-22 21:11:38
沼崎一郎 @Ichy_Numa

.@ynabe39 もちろん、「信じるに値しない」ことはたくさんありますが、大切なことは、「1、0」ではないということでしょう。「ほぼ信じられる」とか「少しは信じてもいい」とか、「信じる」程度によって行動を変えることができるようになることがポイントで。どの程度「用心」するかとか。

2013-02-22 21:14:05
椎路ちひろ @ChihiroShiiji

@ynabe39 科学の外側にいる人と内側にいる人の差は検証にかけるつもりでいるコストの差ではないかと考えます。科学者だってある程度「信じる」で共有してることはあると思います。(何か疑わしい兆候があれば「疑う」に移るにしてもある時点では適当なところで検証を打ちきって「信じる」。)

2013-02-22 21:47:32
渡邊芳之 @ynabe39

@ChihiroShiiji 実験や統計,ジャーナル共同体などは「科学内部での検証コスト節約のためのシステム」ですからね。ただそれらのシステムを共有しない科学外部に対してはどうか。

2013-02-22 21:50:25
椎路ちひろ @ChihiroShiiji

@ynabe39 例えば研究者が他者の研究発表を聞く時、根拠不十分や論理の飛躍などは疑っていても、故意の根拠捏造とかはあまり疑っておらず「信じる」しているように思います。(既存知識との不整合や内容そのものの不整合など疑わしい兆候が出てくると「疑う」に移行すると思いますが。)

2013-02-22 21:53:26
渡邊芳之 @ynabe39

@ChihiroShiiji それは「科学者コミュニティ」の「非明文法」あるいは「仁義」や「慣習」のようなもの(もちろんそれを破った時には排除される)によって維持されていると思います。

2013-02-22 23:00:04
渡邊芳之 @ynabe39

@RawheaD これですが、心理学や考古学のように自然科学ではないものが科学であろうとする時にいう「科学」は明らかに「方法論の名前」です。しかし一般の人にとってそうでないのと同様に、自然科学にとってもおそらくそうではないのではないかと思っています。

2013-02-22 23:48:54
渡邊芳之 @ynabe39

@RawheaD 自然科学がそうであるところの「科学」は方法論だけでなく、歴史的に積み重ねられてきた成果やその社会への影響、科学者コミュニティや研究者養成のシステムなどを総合した概念だと思います。

2013-02-22 23:55:15
渡邊芳之 @ynabe39

@RawheaD ですからたとえば心理学や教育学が方法論的にはいくら「科学的」になろうとも、それによってそれらが自然科学がそうである意味での「科学」になることはないと思いますし、そういう意味で科学は「方法論の名前」ではないのだろうと思います。

2013-02-22 23:57:23
渡邊芳之 @ynabe39

私の知っていた中国人が(半ば冗談なのかもしれないが)1949年以降の共産中国を元や明や清朝と同様な「朝廷のひとつ」だと捉えていたのと同様に、「科学の時代」というのも科学者以外にとっては「キリスト教を信じる時代が終わって今度は科学を信じる時代になった」だけなのかもしれない。

2013-02-23 00:04:56
刹那の無為徒食 @59224

何でキリスト教? RT @ynabe39: 「科学の時代」というのも科学者以外にとっては「キリスト教を信じる時代が終わって今度は科学を信じる時代になった」だけなのかもしれない。

2013-02-23 00:09:26
渡邊芳之 @ynabe39

@59224 科学はヨーロッパで生まれたものなので。日本ならそこに仏教とか神道が入ってもいいです。

2013-02-23 00:11:03
Dr. RawheaD @RawheaD

@ynabe39 「科学」の意味が、自然科学をやっている人にとってさえ方法論以外・以上のものになっているというのは同意です。そして、その意味での「科学」にまつわる問題点は先生の仰る通り。一方で、懐疑論者(など)が似非科学を批判する時に持ち出す「科学」は方法論のことだと思います

2013-02-23 00:22:02
Dr. RawheaD @RawheaD

@ynabe39 それ故にこれ→(https://t.co/zwbrhsOWVk)であり、ここで「徹底」することの対象には自然科学者も含める必要があるのかもしれません

2013-02-23 00:24:09
MoT @romaspqr

しかし逆に「思想」性が欠落していたが故に、古代中国で非常に高い技術が生み出されてもそれが「科学」になる事が出来なかったと、歴史学者トインビーが言っていたと記憶します。数学はピタゴラス派の宗教的「数」信仰、物理学は占星術、化学は錬金術を起源としています。 @ynabe39

2013-02-23 00:28:35
MoT @romaspqr

@ynabe39 その為、現代の科学者にとっては、過去のルーツとの差異が「明確」に認識できたとしても、科学者の中で教育を受ける機会が無いかった一般の科学と馴染みのの少ない人々には、その差異が認識出来なくても当然かも知れません。(もしかすると科学者の多くにとってもかも知れません)

2013-02-23 00:34:40
渡邊芳之 @ynabe39

@RawheaD むしろ科学にニセモノとホンモノがあるというためには科学は「方法の名前」でなければならないのです。初期の科学哲学は科学と非科学を方法論で区別しようとした。しかし論理実証主義のそうした試みは破綻したとみるのが現在の一般的な考え方です。

2013-02-23 06:17:18
渡邊芳之 @ynabe39

@a_alpha_m 少なくともほとんどの人にとってはそうでしょうね。

2013-02-23 06:34:17
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