地方都市におけるオリジナリティについて

まとめました。
政治 ルーマン 高田 社会学 コンテキスト 意味論 都市論 建築 サイクリズム 上越 地方都市
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39102011 @39102011
図式 A 雁木や町屋は現代生活に合わないという意見(主流) B 雁木や町屋という形式・建築を守らないければいけない、残した方がいいという意見(反主流) C 雁木や町屋を楽しく使っていこうとする行為・表現
39102011 @39102011
そして以上の流れを生むためにCという行為をすることの意義。すなわち町屋にすみ、町屋を楽しみ、町屋で暮し、町屋で生きることの意義を確立することを目指す。
39102011 @39102011
「誰でもきていい・誰かに開かれている」というのは都市型のコミュニティでありうる。閉じているのと同時に開かれているという状態を生みやすい構造に雁木や町屋はなっている。問題はソトからの受け入れ体制が整っていないということ。(3人の議論ではもてなしの心がないと表現)
39102011 @39102011
とりあえずこんなところで。可能性に開かきつづけるには、言論空間を形成しなければならない。それも誰もが参入可能なカタチで。
Takaaki Ishizuka @Ishizucat
@39102011 テキスト化はその時々の場所性・時代性などのコンテクストから刹那的に派生する意味をメディアとして共有するための手段だと思う。テキストは文字列だけを指すのではなく、言語的なものであれば建築でも良いと。要するに形になればテクストだと。
Takaaki Ishizuka @Ishizucat
@39102011 印象的だったのは、地域にある天然の素材を組み合わせて家を作る建築家の話で、それはその人なりの創造性・宇宙観を建築というテキストを通して発信しているということだったよね。
Takaaki Ishizuka @Ishizucat
@39102011 建築は本来、風土と不可分なわけだけれど、近代的な建築は風土を超えて独自の場所性を作り出す。他所から材料やエネルギーを調達してきて建てるから、それはコンテクストを無視しているし、異なる意味性を地域に持ち込んでいることになる。
Takaaki Ishizuka @Ishizucat
@39102011 現代の建築はその多くが原発によって支えられているのにも関わらず、そのことの意味を正しく理解できないのは、風土的なコンテクストを無視した意味の発信に慣れすぎたからではないかと。テクスト化する、意味を発信する行為における近現代の反省点だと思う。
Takaaki Ishizuka @Ishizucat
@39102011 個々人がアンテナを立てて発信するっていうのは、誰かに強要を強いたり、価値の妥協・意味の迎合を前提とする「参加」とは異なった社会組織論なのかなと。個は個としての場所性を保ちながら、ネットワークの中に総合的な刺激によって最適化される。
39102011 @39102011
@Ishizucat 古民家を独力で直し続けている閏間さんの話だね。江戸時代の匠たちは曲がった木を組み合わせて最良の構造を作っていた。「自然を必然にかえる」ものだった。今では2×4のように寸法が規格化された輸入材を使っている。まっすぐな木は作りやすいけど風土とは遊離してしまう。
39102011 @39102011
@Ishizucat あるコンテクスト(場所性・時代性)から意味が生まれる。意味はコミュニケーションの連環(社会)である。とうすればコンテクストから一瞬生まれる社会を作り出すものがテクスト化(メディア)なのかも。建築は一瞬生まれる社会を石化して積み上げる行為なのかも。
39102011 @39102011
@Ishizucat ルーマンの意味論とも親和性が高いと思った。社会システム論になると一気に壮大になるけど。そいう言えば地域社会とルーマン理論を論じた論文をどこかでみた。
39102011 @39102011
@Ishizucat 地方にいると自然環境の上に社会が成立していることがよくわかる。東京は何層もある人工環境の上に社会が成立している感じ。雁木というのはまさに自然環境に適応するためのもの。
Takaaki Ishizuka @Ishizucat
@39102011 社会はコンテクストから一瞬生まれる。テクスト化は「それ」を私たちが受容可能な形態として物質化する行為である。というのは俺のイメージにもかなり近いかな。細かくいうと、マクルーハン的に〔テクスト=メディア=メッセージ〕なのかもしれないな。
Takaaki Ishizuka @Ishizucat
@39102011 ルーマンも一度整理する必要があるかもしれないね。意味論は特に重要だと思っていて、例えばリンチとか戦後都市論において意味論が意図的に棄却されている。それは意味論が高度に複雑な事象を対象とせざるを得ないからなんだけど、徐々にその複雑系を扱う下地は整ってきている。
Takaaki Ishizuka @Ishizucat
@39102011 ルーマンだと北田さんが主な論客なんだろうか。
Takaaki Ishizuka @Ishizucat
@39102011 被災地が皮肉なのは、「都市」計画をそのまま適用するから、制度上の矛盾ができて都市がいつまでたっても建たない。2年間色々見聞きして、やはり三陸のあの辺は見た目都市でも中身は都市とかなり違う。人工環境じゃないから。資本主義経済圏でもない。
Takaaki Ishizuka @Ishizucat
@39102011 商店街が必要かという議論もあったけど、今のところ自分の結論としては、シンボルとして商業中心・文化中心は必要だけど、それが商店街である必要はない。もっというと、地方都市の中でさえ多核分散するのが良いと思う。
Takaaki Ishizuka @Ishizucat
@39102011 谷君の話にもあったように、商店街は一種の権威と化していて、実際に人は棲んでないんだけど、土地・建物だけ持っている人は多い。それは西川口も同じだった。過去の自民党政権が商店街政策で集権した名残がそこかしこに残っている。
Takaaki Ishizuka @Ishizucat
@39102011 商店街は今更いうまでもなく、地域が資本主義環境に適応するための装置だったと。以前長岡の雁木も歩いたことあるけど、既にまばらで機能してなかったな。それは地域が中央と接続されて雁木の意味が商店街的なものに変質し、商店街の衰退と運命を共にしつつあるからだと思う。
Takaaki Ishizuka @Ishizucat
@39102011 谷君の活動を聞いていてなるほどなと思ったのは、まず硬直化している商店街グループと距離を置きつつ、でも安直に対立軸を立てるのでもなく、第三極から価値の転換を図ろうとしていること。さっき多核って言ったけど、まさにそれだなと。
Takaaki Ishizuka @Ishizucat
@39102011 政治の話をすると、一般意思2.0みたいに一人一人が意識を持って民意を発する時代になってきていて、もう商店街・町内会のみが民意を吸い上げる機能は終わったと。それは一つの核では有り続けると思うんだけど、核はそれだけでは不十分。
Takaaki Ishizuka @Ishizucat
@39102011 最近、Open Dataというプラットフォームに注目していて、何かと言うと、HTMLでリンクを張り巡らしたWEBに、データ中心のWEBを織り込む。データを横断的・機械的に扱えるようになるので、アプリなりにマッシュアップが飛躍的に容易になる。
Takaaki Ishizuka @Ishizucat
@39102011 Open Dataの本質は「データの共有」にあるので、一人一人が、持っているデータを気兼ねなくWEBに上げて、アーカイブ化して、誰でも自由に編集・加工することができる。地域計画の担い手が広がる。議員や市民が政策をつくりやすくなる時代になるかもしれない。
Takaaki Ishizuka @Ishizucat
@39102011 だから、「自らがアンテナを立てて」ということが、文化だけでなく、政治にも手を出しやすくなり、一人一人が地域の環境・文脈に応じて核として様々なものをテキスト化する。風土を逸脱せず、本来的な意味を紡いで社会を織りなして行くことができるようになるんじゃないかと。
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