丹生谷貴志ツイートまとめ(2013年3月)
感想? ええと、正直、なんで自分がミステリーが苦手なのか再確認。向いてないのですね。まずは文章を添削したくなる。或いは死体の横で皆で討論始めるの変でしょとツッコミを入れたくなり、だいたいが最初の四分の一で犯人とトリックの予想がついてしまい、まさかと思ったらそのまんまだった・・・
2013-03-05 02:56:36クリスティーなどは、犯人の予想がついても、なんと言うか小説全体に染み込んでいるジェームズ朝英国風俗小説(?)の感じを楽しめばいいので素敵だが、どうも日本の小説ではそうした例に会うことはあまりない。というわけで、今回のミステリー再認はちょっとがっかりした結果になりました
2013-03-05 03:00:56ミステリー作家は大変だと思います。体壊すほど心血注いでも、まああらかた一回読まれれば再読はされないでしょうし、特に「現代本格」と分類される人はトリックの出来不出来で第一に判断が下されてしまうことが多いでしょうし。
2013-03-05 03:19:48イヴリン・ウォー『Loved One』の新訳が出るそうです。前の訳題は『囁きの霊園』とかで、あのねえ、でしたが新訳は『ご遺体』。なるほど確かにそういう意味ですが、映画化題名は『タブド・ワン』で、それで人気もあったんですから発音生かしても『タヴド・ワン』じゃ駄目なんでしょうかね?
2013-03-05 04:31:17よく知られた話だと思いますが、松本清張『点と線』が欧語に訳されて何かの賞の候補になったとき、しかしこの電車時刻表トリックが、時刻表通りに電車が走らないのが当然の環境ではトリックとして成立しないということで「これは一種のSFである」ということになって、落選でしたか・・・たぶん・・・
2013-03-05 04:36:46例えば吉本×花田論争という有名な喧嘩があり、「転向」という当時は切実な主題を巡ってはいても今読むと飲み屋の喧嘩プラスアルファに過ぎないので論争と呼ぶのも妙なものですが、吉本さんについて言えば今少し冷静になれば本質的な論争になる筈のものを罵倒で台無しにする気配がって残念と言えば残念
2013-03-05 23:53:27その欠点が露骨に出たのが吉本×谷沢論争で、これまた今見れば吉本さんの事実誤認に発した空虚な罵倒の応酬で論争とも言えないものですが、おそらく吉本さんには谷沢さんのいわゆる「実証文献学」に内包されている「切り捨て」に対するいらだちがあり、それを明示すれば論争になり得たのにと思うのです
2013-03-06 00:01:21文献資料学は敢えて例えれば「恋人に関わるすべてを知りたい欲望」に似たところがあり、その真摯な!情熱に導かれて対象に関わる事実を詳細に調べ知り尽くそうとする営みでしょうが、しかし当然のことながら「事実」を全て知っても「恋人」の全てを識ることは不可能で当然その先に「幻想」領域が広がる
2013-03-06 00:07:06この「幻想」の扱い、自省に文献資料学にまつわる「方法」の問題がある。しかし谷沢さんはこの「幻想」の部分を文献学的詐欺と呼んで切り捨ててしまうことがあった。例えば本居宣長の「国学」に対する評価がそうで、なるほど宣長さんの「国学」の中心には「やまと」に対する妄念に近い「幻想」があった
2013-03-06 00:12:23それを目して谷沢さんは後年(?)宣長を「詐欺師」と呼ぶことになるのですが、逆に言えば、実際はその「妄念」こそが宣長という異様な「思想家」の本体をなしていたので、それを詐欺師と呼んで切り捨ててしまえば実は宣長さんから残るものは貧しい資料の山にしか過ぎないとも言える
2013-03-06 00:15:04敢えて吉本さんの側につけば、その感性からすれば、この妄念の部分を切り捨ててしまう文献資料学は「事実の集積だけで対象=恋人を理解した気になる者の暴力性」だと映ったのでしょう。これは文献学の本質に関わる問題になり得たはずで、しかし結局吉本さんはそれを頓珍漢な罵倒に終わらせてしまった
2013-03-06 00:19:57・・・僕は何はともあれ美術史という、対象への「恋」の直接性と途方に暮れるような文献資料とのせめぎ合い(!)からなる「学」の近くにいて・・・まあ、中にはそこで発狂した友人などもいる、そんな風景に囲まれていたことがあるので・・・まあ・・・
2013-03-06 01:21:41とんだ不明で、花田清輝、大岡昇平、太宰治が同年だということを今頃確認。まあ、そんなもんです。小松左京さん、関西に来てテレビで話す姿はよく見たし、京大イタリア文学・・・いろいろ気になるのに完全な読まず嫌い。修正の必要、あるか。不意にカルヴィーノ・・・植民地生まれ、パルチザン闘志・・
2013-03-06 03:06:16カルヴィーノ・・・未だ少し辞書片手にイタリア語を読む気力があった頃読んだ数少ないイタリア作家・・・タブッキやらより重要だと思っていますが、さて・・・しかし、ヴィスコンティ世代が終わった後のイタリア映画の低迷は・・・関係ないか。頭色々で、収集不能
2013-03-06 03:09:41・・・ああ、もちろん「文献資料研究者」には文字通り資料そのものへの殆どフェティッシュな執着と喜びだけで動く人もいて、それはそれでありなんでしょうが。
2013-03-06 09:33:40例えば「壁」に執着する時、支えとしての壁の強固さを恃む者と壁の脆さを恃む者とがいて、二人は同じ場で「似ていて相反する」別の夢を見始める。「音楽という壁」の幻惑といかがわしさは、それが「双方に魅惑として働きかける」ものだから? カフカの音楽への嫌悪・・・
2013-03-06 09:40:06例えば小松左京さんの連作『ゴルギアスの結び目』の『岬にて』或いは表題作などを読むと、これが違う文体で書かれていたらいいのにと思う。僕は小松さんの文体にすっきり入れないようです。しかし『岬にて』は「私」という一人称で書かれるべきものだったのか、とかが気になるし・・・
2013-03-06 09:51:34「文学」は、というか「芸術」は「壁」を巡る。それは壁に「ついての」動作であると同時にそれ自体が「壁そのもの」のアンビギュイティとなろうとする。例えば「私は壁のような文章を書きたい」とフロベールが言う時・・・或いは、マネは薄い、不思議な、壁そのものである・・・
2013-03-06 10:00:44誤解を恐れずに言えば「この世界」をどうしようもないものにしているのは「生真面目さ」でしょう。しかしこれを云々するのはこれ自体結構厄介なことで、ウンベルト・エーコが『薔薇の名』の主題にしたように、「キリストは笑ったか」という問題自体が「生真面目に」問題化されとことを見ても分かります
2013-03-07 11:59:21まあ、「あなたは世界を生真面目に捉え過ぎている」という議論を起こす時、その議論は相手の生真面目さに応じてそれ自体が生真面目な議論になってしまうという抜き難い悪循環に陥らざるを得ない。バタイユの不幸(!)もそこにあったし、或いはベンヤミンもそうだったかもしれません
2013-03-07 12:05:29ホイジンガの『ホモルーデンス』という素晴らしい本の運命もそうで、生真面目さに抗する為には生真面目にならざるを得ないという自己矛盾をホイジンガですら回避出来なかった。
2013-03-07 12:13:38ややこしいのは、生真面目の反対に不真面目になればいいという単純なことじゃ話は済まず、反対物は相手と似た性質を帯びるという当然の論理、不真面目な者は意外に「不真面目に真面目」な者であって、似た者同士の双子になる。「本気で不真面目」になることは容易ではない・・・
2013-03-07 12:24:35こんな例証を上げても仕方ないのですが、例えばソクラテスは「本気で不真面目」であり続けようとした、聖フランチェスコは微妙か、スピノザはライプニッツに比すれば「不真面目」だった、ニーチェは不真面目な真面目さで・・・狂った。芭蕉は? 大田南畝は? 石川淳は? 蓮實重彦は? 柄谷行人は?
2013-03-07 12:48:43『世界史の構造』やら『哲学の起源』の柄谷さんは或いは以前の「生真面目な不真面目さ」から「本気で不真面目」であることにシフトしようとしているのかもしれないと、まあ、ぼんやりと思ったりします。つまりは?柄谷さん本来のキャラそのものに「成ること」?
2013-03-07 12:52:29