直前までユベール・ロベールの『バスティーユの破却、第1日』を題にするつもりだったり、革命パリの軍事史は「テュイルリー」の回でやったばっかりと言うこともありますが、今回はイメージやコンテキストではなく、テクノロジーの話。
2013-03-13 23:04:59城塞史におけるバスティーユというのは余り関心を持たれていない問題なので、それについて一通り。あれほど堅固そうな城塞が1789年には何故たったの3時間半で陥落したかが分かれば、火砲の出現が「城の時代」に本当にトドメを刺したのか、という疑問も自ずから答えを得られるわけで。
2013-03-13 23:10:25バスティーユの心性史、つまり革命の前後それぞれにおけるその伝説化については、シャーマ『フランス革命の主役たち 1』、ノラ編『記憶の場 2』、リューセブリンク/ライハルト『バスティーユ 専制と自由の標章』 http://t.co/g93P9dfj0X を読めばひとまずよろしいかと。
2013-03-13 23:20:55いつもの如く、楽観に満ちたプロットのおかげで書くつもりだったことの半分弱くらいは紙幅に収まらなかったので、まあ将来もしも単行本化されれば入れるつもりですが、とりあえずツイート向きの話題をその中から幾つか。
2013-03-13 23:25:47写真のクリフォーズ・タワー(とずっと後に呼ばれるようになる塔)は円形式主塔の「代表」ではありません。これは、他にイル・ド・フランスのエタンプ城でしか見られないような特殊な城塞です。公式サイト http://t.co/1AHeyspdZi
2013-03-13 23:31:32(承前)征服王の時代に大量に築かれ、その後旧式化したモット・アンド・ベイリ式の砦の「モット(人口の丘)」部分を利用し、かつて木柵に囲まれていた部分を石造の壁に代えて改築したものが囲式主塔(シェル・キープ)ですが、クリフォーズ・タワーではきわめて大型かつ重厚な、
2013-03-13 23:36:53(承前)しかも四葉形という変わった主塔が採用されています。やはりと言うべきか、人工のモットではその重量を支えきれず、タワーは後に地盤沈下を引き起こしています。小型の船体に巨砲を搭載した三景艦のような、いびつな設計です。しかも同時代の城のような縦深防御をろくに施されてもいません。
2013-03-13 23:41:17(承前)この主塔は、スコットランドの脅威が迫ったため、ヨーク城の防備強化策として急遽築かれたのですが、周知のように不安定で収入に窮していたヘンリ3世の政府には、ヨーク城を本格的な縦深防御式の城塞に改装する資金がなかったので、このような中途半端な施設となってしまったのでしょう。
2013-03-13 23:44:52(承前)クリフォーズ・タワーの築城費はほぼ2,000ポンド。ひどく安いわけではありませんが、前後の代の巨城、ガイヤール城とカーナーヴォン城にかかったお金がそれぞれ約20,000ポンドですから、ヨークという要地を護る王の城としては貧弱です。外郭防御を欠いていますから、正規軍に
2013-03-13 23:48:29(承前)攻められれば、それほど長くは持ちこたえられなかったでしょう。ちなみに、ヘンリ3世の生涯の大事業であるウエストミンスタ修道院寺院の再建に要したお金は6万ないし7万ポンドと言われています。
2013-03-13 23:51:38脚注でかすかに触れた『ロミオとジュリエット』のこと。彼らの一族、モンタギュー(モンテッキ)家とキャピレット家(カッペレッティ)家を「ペア」として有名にしたのはダンテ『煉獄篇』第6話で、古い本の注釈ではシェイクスピアの設定そのままこれらを共に「ヴェローナの貴族」としてあります。
2013-03-14 00:04:58(承前)しかし実際には、モンテッキもカッペレッティも貴族の一族ではないし、後者に至ってはヴェローナと何の関係もなかったりします。伝説と事実との乖離については、オーリン・ムーアの古い論文で、これ以上付け加えることのないほど明快にその謎解きがされていますから、ざっと紹介しましょう。
2013-03-14 00:08:02(承前)ムーアによれば、モンテッキとは13世紀初頭、ヴェローナの有力貴族エッツェリーノ・ダ・ロマーノが興した、ロンバルディアにおけるギベリン(皇帝派)の一大「党派」。彼らが盟約を結んだヴィツェンツァ近郊のモンテッキオ・マッジョーレ城から付いた名前です。
2013-03-14 00:44:56(承前)対するカッペレッティは、シュタウフェン家に近かった「クレモナ」におけるゲルフ(教皇派)の「党派」。党派の目印として小さな帽子を被っていたことからその名前が付いたと考えられています。シェイクスピア作品の舞台、ヴェローナとは縁もゆかりもありません。
2013-03-14 00:51:01(承前)シュタウフェン家滅亡後の13世紀後半、ギベリンとゲルフはロンバルディアで激しく戦い、モンテッキとカッペレッティも間接的に対立することになりますが、両者が特定の利害をめぐり直接衝突したという記録は何ひとつありません。
2013-03-14 00:56:12(承前)この霞のような事実からロミオとジュリエットの物語が生まれる契機を作ったのは結局ダンテだった、とムーアは結論付けています。煉獄篇第6歌で嘆かれるイタリアの混乱の事例として、彼は「モンテッキとカッペレッティ」、そして「フィリッペスキとモナルディ」の二つのペアを挙げています。
2013-03-14 01:00:37(承前)フィリッペスキ家とモナルディ家は、オルヴィエートで対立していたギベリンとゲルフの一族です。14世紀前半から2世紀半の間に書かれた多くの年代記にダンテの作品が流れ込み、混乱が事実を上書きし、モンテッキとカッペレッティも同様に「一族」だと考えられるようになっていったのです。
2013-03-14 01:09:12(承前)この伝説化の一つの終点が16世紀のルイジ・ダ・ポルトの小説であり、そこからさらにシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』が誕生して来るのです。史料をめぐる具体的な謎解きについては、是非ムーアさんの論文を読んでみてください。 http://t.co/XY1xsfYIsq
2013-03-14 01:14:37(承前)城塞に話を戻しますと、ヴェローナの「ジュリエットの家」なる観光名所――中世の病院の建物につい最近増築されたバルコニー――は、当然、歴史的事実とは何の関係もありません。ロミオもジュリエットも実在していません。何しろ、彼らの家が実在しなかったのですから。
2013-03-14 01:17:47(承前)仮に戯曲の大筋が事実だったと仮定しても、ジュリエットの家が、「乗り越えてみせましょう」と言われてしまう程度の塀にのみ護られた、いかにもテューダー・ゴシック様式の瀟洒な屋敷だったとはあまり考えられません。
2013-03-14 01:23:26(承前)当時の都市貴族間の争いの多くは、『ウエスト・サイド物語』式のストリートファイトなどではなく、「塔や城塞を取ったり取られたり」の本物の市街戦でした。低い塀くらいではたちまちモンタギュー家に夜討ちをかけられ、ジュリエットも両親も皆殺しにされてしまいます。
2013-03-14 01:26:53(承前)庭はあってもたぶん郭内の中庭で、さらにもし舞台が13世紀でなく14世紀ならば、彼らの家はタワー・ハウスだったはずです。(シェイクスピアはさすがそのあたりを巧みに処理していますが)ロミオは忍び込んだり抜け出したりするために、47かサム・フィッシャーか、少なくとも
2013-03-14 01:31:38(承前)ルドルフ・ラッセンディルかルパン3世のような苦労をしなければならなかったでしょう。郎党を背後から襲って服を奪って櫃に隠すとか。まあ、アンジュー家の誇り、無敵のガイヤール城もステルスアクションによってあっさり落ちたりしていますから、不可能ではありませんが。
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