芦田先生2013年3月23日の連続ツイート

後で読む為のメモ
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芦田宏直 @jai_an

発信(input)の時間と場処が「今」と「ここ」というように刻まれているだけではなく、受信(output)の時間と場処も同じように「今」と「ここ」として刻まれているのだとしたら。

2013-03-23 23:27:41
芦田宏直 @jai_an

そうするとヘーゲルがここで言っているような「書き留める(aufschreiben)」ことの問題は発生しない。

2013-03-23 23:27:59
芦田宏直 @jai_an

たしかにヘーゲルが言うように、書き留められた今は、それを「後になって」目にしても存在しない。しかし、それは用がないだけのことだ。書き留められたその瞬間にそれが目に留まれば、もはや「今は存在しない」という「気の抜けたもの」(ヘーゲル)にはならない。

2013-03-23 23:28:20
芦田宏直 @jai_an

人は、〈現在〉において終わろうとしている。「濃密手帳」やTwitterにおいて、〈現在〉を細分するのは、現在において生じ、現在において終わろうとするものだけに気を留めるためである。

2013-03-23 23:28:36
芦田宏直 @jai_an

それは、将来の自分や過去の自分を捨てているのではなく、つまりいかなる刹那主義でもなく、〈現在〉において〈始まり〉や〈終わり〉を細分することによって、〈現在〉が〈永遠〉であるように留まり続ける〈ふるまい(behavior)〉である。

2013-03-23 23:28:54
芦田宏直 @jai_an

かつて「終わりなき日常を生きろ」と叫んだ社会学者がいたが、叫ぶまでもなく、日常は〈終わり〉を見せないように進行している。オウムの「ハルマゲドンによる救済」は、この終わりという「外部は消えた」ことに対する「ファンタジーの現実化」だったのである。

2013-03-23 23:29:16
芦田宏直 @jai_an

しかしもう一方で、この日常は、不断に終わりを見せつける日常でもある。 オウムの「ハルマゲドンによる救済」を、長い時間の終わりというファンタジーだとすれば、Twitterにおける「タイムライン」は、短い時間における終わりを不断に再生している。

2013-03-23 23:29:34
芦田宏直 @jai_an

それは、個人が住宅ローンを初めとする買い物のローン化によって、〈信用〉を細部にまで浸透させ破綻をこまかく延期する、つまり細部にまで終わり(=複数の終わり)を繰り返すことによって破綻(=単数の終わり)を延期することと似ている。

2013-03-23 23:29:55
芦田宏直 @jai_an

近代的な個人の経済力の限界=破綻(End)は、クレジットカードによって、相対的に延期されているのである。

2013-03-23 23:30:50
芦田宏直 @jai_an

フクヤマの「歴史の終わり」の民主主義も、政治闘争が終焉したのではなくて、政治闘争が民主主義に最適化したということにすぎない(それが事実かどうか別にして)。フクヤマは、日本の「歴史以後」は「エコノミックアニマルとして生きる」ことだとさえ言っている。

2013-03-23 23:31:07
芦田宏直 @jai_an

フクヤマの「歴史の終わり」は(これまた日本通の)コジェーヴ的な「動物」論に基づいている。コジェーヴの「歴史」以後、つまり「フランス革命とナポレオン以降」の「人間」=「動物」論とは、要するに、人間が機能主義的になるということでしかない。

2013-03-23 23:31:43
芦田宏直 @jai_an

良質な機能主義はロマン主義よりははるかに健全だからだ。

2013-03-23 23:31:53
芦田宏直 @jai_an

しかしコジェーヴのヘーゲル的「歴史の終わり」論は『精神現象学』の〈自己意識〉論までの話。コジェーヴは、たぶん『精神現象学』を最後まで読んでいない。

2013-03-23 23:32:18
芦田宏直 @jai_an

それもあって、彼の歴史の終わり論は、奴隷の主人化という個人主義的・主体主義的・人間主義的な話で終わっている。だから民主主義論も動物論で終わってしまう。

2013-03-23 23:32:27
芦田宏直 @jai_an

しかし、「歴史の終わり」は、コジェーヴが考えるほど人間主義的なものではないし、時間的でもない。

2013-03-23 23:32:43
芦田宏直 @jai_an

「ハルマゲドンによる救済」は「ファンタジーの現実化」(宮台)であったが、オウム事件以降急速に発達したネット社会 ― 地下鉄サリン事件、阪神・淡路大震災が「現実に」起こった年は、くしくもWindows95の発表された1995年だった ― では、(続く)

2013-03-23 23:33:38
芦田宏直 @jai_an

(承前)…その「現実」性を覆うようにして、心理的な〈内面〉が拡大している。

2013-03-23 23:33:58
芦田宏直 @jai_an

〈終わり〉は日常の相対性と対比されるものではない。〈終わり〉は、オウム以降、むしろ不断に日常化されたのである。

2013-03-23 23:34:18
芦田宏直 @jai_an

リオタールの言う「大きな物語」=「メタ物語」としての「ハルマゲドン」は「小さな」物語の連続として日常化された、という意味では、〈終わり〉そのものは消失したわけではない。

2013-03-23 23:34:58
芦田宏直 @jai_an

しかし「大きな」終わり、「小さな」終わりという終わり論の相対化は、結局のところ、〈終わり〉そのものとは何かを考えることを棚上げにしている。

2013-03-23 23:35:14
芦田宏直 @jai_an

これらの思考は、結局のところ、〈終わり〉は存在すると言えば存在するし、存在しないと言えば存在しないと言っているだけのことだ。

2013-03-23 23:35:29
芦田宏直 @jai_an

さて、ヘーゲルの「過去(Gewesen)」論は、「意識の経験の学」として、精神の「想起(Erinnerung)」としての「内面化(Er-innerung)」論だった。

2013-03-23 23:36:32
芦田宏直 @jai_an

しかし「何面化」の原理は、〈時間〉だった。「空間の否定は時間である」(ヘーゲル)ようにして、「空間の真理は時間」(ヘーゲル)だったのである。カントの時間論がそうであるように。

2013-03-23 23:36:47
芦田宏直 @jai_an

そして〈時間性〉とはカントにとってもヘーゲルにとっても(そしてまたハイデガーにとっても)〈自己〉のことだった。後悔の自己はおのれの過去を内面化することによって、再度、〈自己〉を取り戻すのである。

2013-03-23 23:37:02
芦田宏直 @jai_an

別の議論展開として。

2013-03-23 23:41:22