芦田先生2013年3月23日の連続ツイート

後で読む為のメモ
6
芦田宏直 @jai_an

しかし死ぬことの記号化(=相対的な代理化)は、記号そのものの起源でもある。死は起源の記号でもある。死は「私の死」でしかないようにして誰も死んだ者などいないが、しかし人が死を「知る」のは、他人が死ぬことを通じてでしかない。

2013-03-23 23:42:16
芦田宏直 @jai_an

〈私〉にとって、死は代理不可能なものであるにしても、その〈私〉には(私単独では)不可能な何かなのである。死がすべての者に訪れることが充分既知「である」のは、他者が際限なく死に続けているように、〈私〉に見え続けているからにすぎない。

2013-03-23 23:42:40
芦田宏直 @jai_an

他者の死が私の死であるように、他者の死が私の死の起源であるようにして、そして、その死は、死そのもの(=私の死)ではないというようにして、死は組織されている。その意味で、死はナンシーの言うように共-現の起源、起源の共-現でもある。

2013-03-23 23:42:57
芦田宏直 @jai_an

つまり〈死〉は「コミュニケーション」(ナンシー)としてしか存在しない。

2013-03-23 23:43:14
芦田宏直 @jai_an

ナンシーは、従って、ハイデガーの「死への存在」の「への(zu)」をコミュニケーション的な「関与」=「死へと関わる存在」と理解する。ナンシーにとって「死へと関わる存在」は、関わる存在の起源、起源の分割である。ナンシーにとって、〈死〉は「コミュニケーション」の起源の非起源なのである。

2013-03-23 23:43:32
芦田宏直 @jai_an

※ナンシーは、ハイデガーの「死への存在」についての、自らの「コミュニケーション」=「共同体」理解を、ハイデガーの、死の「私のもの」性、「単独性」に対置している、そしてまた、その意味でレヴィナスのハイデガー批判に同調しているように見えるが、(続く)

2013-03-23 23:44:10
芦田宏直 @jai_an

…しかし「起源の分割」としての、ナンシーの、死の理解は、ハイデガーが私=自己の無力性(Nichtigkeit)、つまり「根拠の無力性(Nichtigkeit)」を取り出すためのものをわざと無視しているように思える。もちろんハイデガーの言う「無力性」とは根拠の「分割」のことである。

2013-03-23 23:44:49
芦田宏直 @jai_an

ナンシーの言う「コミュニケーション」は、個人間のコミュニケーションではない。それはあらゆる内在の有限性(他人の死の有限性、私の誕生の有限性、私の死の有限性)を意味している。

2013-03-23 23:45:11
芦田宏直 @jai_an

これらの有限性(Endlichkeit)の「一切は『外部』に曝されている」。始めに「分割(partage)」ありという事態なのだ。それがナンシーの言う「コミュニケーション」。

2013-03-23 23:45:29
芦田宏直 @jai_an

私の私にとっての近さ(内在)、そしてまた他者の存在は、死(現存在の「有限性」)が共-現として存在すること、共-現としてしか存在しないことの結果(effect)に過ぎない。

2013-03-23 23:45:44
芦田宏直 @jai_an

従って、〈死〉が忘れ去られているということは、〈他者〉が忘れ去られていることだと言ってもよい。死の忘却は、言い換えれば、私の私にとっての〈内在〉を強化する事態だと言ってもよい。

2013-03-23 23:45:59