ダメット「演繹の正当化」をめぐって

 演繹の情報的価値とは何か?これは、デカルトが演繹を自身の体系の方法論としていながらも、演繹がいかなる新しい発見ももたらさないと演繹批判を展開していたことに、暗に含まれていた問題だった。J.S.ミルは、演繹の正当化の問いが、演繹の有用性の問いと演繹の妥当性の問いに区別されることを洞察した。しかし、演繹がもつそれら2つの側面の両立を実際に推進したのは、現代になってから、代表的にはダメットであった——。  というわけで、ダメット「演繹の正当化」関連文献を読んでいましたが、熟読する時間もなく、あまり良く理解できず、やらかしたようです。そこに優秀な後輩や論理学の専門家が立ち上がった。みなさまのご協力、感謝いたします。  なお、都合の悪いツィートがあれば、外していただいてかまいません。
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トムクルーズ @tomcru_

古典的な集合論も非可述的という意味では循環的なので古典脳許すまじ

2013-05-06 19:09:11
しんじけ @shinjike

@ytb_at_twt ええ、ですから、循環論法が問題になるケースと、問題にならないケースがあるわけです。ダメットの場合は、後者にたって、演繹の正当化が不可能とする古典主義者を批判していますね。

2013-05-06 19:11:36
しんじけ @shinjike

さっきの「演繹のパラドクス」は、はダメット=金子の紹介する「古典論者の演繹の正当化は不可能だとする議論」。そして、その議論の「循環論法は正当化にならない」という前提を明示化したもの。

2013-05-06 19:14:30
大西琢朗 @takuro_onishi

@shinjike むむ、ちょっとわかりにくくなってきましたね。妥当性と有用性をたんに分けて論じるというよりは、演繹はこれらの一見両立しがたい性質をもっているので、それを調停するような説明を与えるべきだ、とダメットは考えたんではないでしょうか。

2013-05-06 19:19:04
しんじけ @shinjike

@takuro_onishi あ、そういえばそういう感じだったかも。最後の方は、ごちゃごちゃしていて理解があまり・・・。

2013-05-06 19:20:40
大西琢朗 @takuro_onishi

@shinjike まあダメットの書き方が悪いんでしょうw ともかく抽象的になるとわかんないので、あのケーニヒスベルクの橋の例で考えるのがいちばんだと思います。

2013-05-06 19:25:22
大王@圏論左翼 @1_hoc

焦燥感に駆られていらいらしながらダメットのJustification of Deduction印刷してた。あかん。抜けがあった。もう明日印刷し直そう

2013-05-06 19:28:17
しんじけ @shinjike

@takuro_onishi ありがとうございます。そうですね、具体例で考えるのが、いいです。ただ、ケーニヒスベルクの橋の、オイラーの証明をしっかり理解していないので、あれですが・・・。

2013-05-06 19:28:52
大王@圏論左翼 @1_hoc

そして今は大西さんの照明論的意味論と双側面説を印刷

2013-05-06 19:29:43
しんじけ @shinjike

ダメットは、演繹を説得の文脈と説明の文脈に分ける。そして、その上で、演繹の正当化の問題が、説明の文脈に属すとする。説得の文脈で(1),(2)→(3)と演繹になっていても、説明の文脈で(3)→(1),(2)となっていれば、問題ない。

2013-05-06 19:30:42
しんじけ @shinjike

われわれは実践において、演繹を規則として受け入れているので、演繹の正当化は、この形をしている。そしてこの場合、説明の方向は、必ずしも演繹にはなっていない。したがって、ダメットは演繹の正当化が可能だとする。

2013-05-06 19:31:01
しんじけ @shinjike

金子先生の議論の要約。金子先生は、MPの正当化を例にあげている。『ダメットにたどりつくまで』p.86

2013-05-06 19:35:05
大西琢朗 @takuro_onishi

@shinjike まああの証明じたいはいいんじゃないですか。ポイントは、ああいう証明を使うと、現実の事柄を直接観察することなく知ることができる、しかもそれは絶対正しい、これって不思議だよね、ということで。

2013-05-06 19:35:15
しんじけ @shinjike

@takuro_onishi 「前提の真理が結論の真理を含んでる」という演繹批判の議論に含まれる仮定がそもそも間違っている、ということを指摘するために出してきた例ですよね。そのために適切な例なのか、疑問です。観察者の命題を前提にとっているようなんですけど、ちょっとどうかなあと。

2013-05-06 19:40:27
大西琢朗 @takuro_onishi

ダメットのケーニヒスベルクの例がわたしは非常に好きで,なんでかというと,ひとつにはもちろん「演繹の妥当性と有用性の衝突」という論点を明確にしてくれるところで,もうひとつは,ダメットがこの例を自説を補強すると同時にその弱点を指摘するためにも使っているところ.ダメットえらいと思う.

2013-05-06 19:42:13
しんじけ @shinjike

オイラーのケーニヒスベルクの橋の証明がある。そこでは、直接観察で得た情報から、直接観察なしに証明したことが、直接観察で得られない情報をも帰結に含む。ゆえに、演繹は必ずしも「前提の真理が結論の真理を含んでいる」わけではない。つまり、反例が存在する。

2013-05-06 19:44:00
大西琢朗 @takuro_onishi

@shinjike んー「結論は前提に含まれているとも言えるし含まれていないとも言える」というところで,そこの悩みどころをうまく捉えているように思いますが.観察された事柄 (知識に関係する) と,起こっていたはずの事柄 (真理に関係する) を分けながら考えるとよいかと思います.

2013-05-06 19:47:01
しんじけ @shinjike

@takuro_onishi なるほどなるほど。観察された「感覚的知識」と、(それら観察された感覚印象がもつ)パターンに関する「操作的知識」を分けていますね。

2013-05-06 19:51:10
しんじけ @shinjike

橋の数が多くなると、経路が多くなり、それらに共通するパターンを、単に観察では見抜けなくなる。ところがオイラーの証明を知っていれば、直接観察に依存せずに、あるパターンに関する帰結を必ず導くことができる。なんじゃこら、不思議だね、と。

2013-05-06 19:55:19
大西琢朗 @takuro_onishi

@shinjike あの証明はある種のパターンの組み換えで,それにより得られる新しいパターンは前提を検証したときに得た情報には (少なくともそのままの形では) 含まれていないということですね.

2013-05-06 19:56:05
しんじけ @shinjike

@takuro_onishi パターンを変換できるようですね。なんのことかよくわかっていませんが・・・。うう。

2013-05-06 19:59:02
しんじけ @shinjike

文脈から、「どの橋も渡った」というパターンから、「ある橋を二度わたった」というパターンへの組み替え、と理解。

2013-05-06 20:00:30
しんじけ @shinjike

Susan Haack 1976 "The justification of deduction" http://t.co/HRLDtQB953 1982 "Dummett's justification of deduction" http://t.co/wyRaPizE9J

2013-05-06 16:31:23
しんじけ @shinjike

そろそろごはん。Haackの論文を読む時間はなさそうだ・・・。

2013-05-06 20:08:05