限定公開でまとめを作れば、相互フォローやフォロワー限定でまとめを共有できます!

支援事業とアート活動

togetter《絵画、アートの「同時代性」》 http://togetter.com/li/498541 から、就労支援等で参照できそうなところを抜き出し、勝手な連想を書き込んでみました(ブログ記事みたいに)。 まとめ主じしんはアート作品(と呼ばれるもの)は作っていませんが、一部の美術批評には、こちらの作業過程を再起動してくれるような、独特の臨床機能を感じています。 多くの支援論には、作業過程を内側からあつかう言語がなく、単なるイメージ戦略の提案や、「抱きかかえ」のような発想しかありません。 続きを読む
環境
923view 0コメント
2
アートの話を、《期待される支援》の話として読んでみる。

期待される労働者像とは。

永瀬恭一 @nagasek
@drawinghell @uchiumisatoshi いろいろ論点が出せるわけですが、あえて「不純」な話をすれば、内海さんのいう「時代の核」みたいなもの、あるいは水野さんの言う先端感を誰が、どのように、社会的に共有できる形で確定するかという「政治」の話があるわけです。
永瀬恭一 @nagasek
@drawinghell @uchiumisatoshi 社会的に共有できる形で、ということが大事でひねりなく富士山の絵を描いてそこに先端感を感じる人がいてもいい。しかしそれが流通可能に共有されるためには、ある種の「批評」が(言説が)介入する、さらに市場や美術館も介入する。
永瀬恭一 @nagasek
@drawinghell @uchiumisatoshi 面倒臭いと言われるのを承知でこれをいうのは、別段制度批判とかではなく、自分の感覚、自分の目というものが(意識しないでいると)平気で誰かの言説(批評)とか市場や美術館の介入結果を受け入れ内面化してたりするので。
永瀬恭一 @nagasek
@drawinghell @uchiumisatoshi 客が見る時代性を作家・制作と切り離して考えるのは難しい。作家は他人の、そして自作を見る時も同時代性を含んだ条件から逃れられない。そして作品を作るだけでなく発表する段階である種自作への批評家・キュレーターにならざるを得ない。
永瀬恭一 @nagasek
@drawinghell @uchiumisatoshi 内海さんが言ってるのはそういう話ではなく「市場に主導権がある今、どうやって“遅い”絵画が時事反応的なレベルでなく構造変化を(市場に支持される形で)できるか」という問題意識で、これは難しい(解ってたら僕やってるw)。
永瀬恭一 @nagasek
@drawinghell @uchiumisatoshi 僕の立場から言えば、絵画の構造市場の構造を切り分けて、市場の問題を前提にして絵画の構造変化だけを市場に流し込む、というのは無理(人の視線は市場を含めて世界に条件づけられているから)だと思っています。
どういう人材が必要とされているか

→労働力のマーケットが決める。作品のように売買される私たち。
しかし、マーケットの論理「だけ」に頼るからこそ、必要な人材が出てこない――というジレンマ。

水野 亮(3) @drawinghell
@nagasek @uchiumisatoshi これは新たな論点になってしまうかもしれませんが、「先端感」だけだと単に主観的な話に終始してしまいそうな気もしますので、「資料」のキーワードを頂くことにします。つまり自分は「作品」「資料」を明確に分けて考えている。
水野 亮(3) @drawinghell
@nagasek @uchiumisatoshi もちろん作品自体が作品的価値」資料的価値」(他にも「お宝的価値」とかいろいろありますが)の両面を持つ。自分は一つの作品がその二つを“別個に”持っており、作品の置かれた文脈次第で各要素の見え方の強さが変わるのだと思っています。
水野 亮(3) @drawinghell
@nagasek @uchiumisatoshi つまり資料的な価値の側面から見れば現存する当時の作品はそれ自体が一級資料のハズなのに、それが「作品」として見せられているが故に「資料」としての価値も感じられなくなる。これは展覧会に行き慣れた人間ならば誰しも経験することでしょう。
支援においては、何が「作品」/「資料」だろう。

たとえば、《あの時代にしか通用しない支援方法》
古いと思っていた発想がとつぜん現代的に蘇生される――など。

永瀬恭一 @nagasek
@drawinghell @uchiumisatoshi セクショナリズムと言われるとそんなセクションどこにあるんだ、今や、あるいは今後、多くの美術館がどんどん中高年層マーケティングに沿って「懐かしいサブカル」展をやるんじゃないかと思われる中で、と言いたくなりますが。
水野 亮(3) @drawinghell
@nagasek @uchiumisatoshi スミマセン、思い付いたのもう少し付け加えます。つまり自分の考える「美術」のイメージは多分永瀬さんが想定しているものよりもずっとボヤボヤしているのだと思います。同心円を構成する一要素なんだけど、境界線は不確定でアモルフな感じ。

アモルフとは、「形態を持たない」 http://bit.ly/YG2lT8

水野 亮(3) @drawinghell
@nagasek @uchiumisatoshi そして重要なのはそれが静的な「領域」なのではなくて、動体であるということです。同心円の外側(世界、時代)が動体なのと同じく、「美術」も動体として絶えず変化して動きがある。だからこそ「前衛」や「先端」といった概念も生まれる。
集団的な生は命題(完成形)ではなく、動きの中にある

スタティックな命題は、ある虚偽に過ぎない。
現時点の私は、そこからやり直すことができる。

内海聖史 @uchiumisatoshi
@drawinghell @nagasek ただ、「前衛」の絵画は、同時代性や先端感という社会の空気や、市場と切り離すことは出来ないと思いますので、それらによってある程度方向性を絞る事は出来るのかなと思います。
内海聖史 @uchiumisatoshi
@drawinghell @nagasek それも美術が動体であることで、現在焦点が当てられる表現と後年に焦点があたる表現は異なることは予想されます。
「何を美術と見なすか」は、《何を支援と見なすか》に重なる。

労働そのものについても言える。

  • 「そんなものは(お金を稼いでいないから)労働ではない」
  • 「いや、それでも社会には必要な労働だ」
  • 「あのときは労働と見なされていなかったが、今はしっかり承認を得ている」 etc.

マーケットに求められる労働と、
自分の作業場の確保

永瀬恭一 @nagasek
@drawinghell @uchiumisatoshi 現実には閉じようもない環境の中で、しかしどこか一点、自分の、誰とも共有不可能な領域を想像的にも確保して、そこで結構意味不明なことをしてる、そういう行為は、僕の実生活・制作の実感としてあります。
永瀬恭一 @nagasek
@drawinghell @uchiumisatoshi 例えば自分が観客として「あれは先端感があるけど他はダメ」という基準はどのように形成されてるのか、更に制作に即して言えば自作のある部分を可能性と見、ある部分をものにならない、と判断する「自分という制度」が問題になる。
自分とは、すでに《制度》である

純粋なアイデンティティに見えるものが、すでにあるパターンを生きてしまっている――という理解。これを言えるかどうかに、分岐点がある。

永瀬恭一 @nagasek
@drawinghell @uchiumisatoshi そもそも美術史は発達史ではなかった。近代に至るまで、最も偉大な美術は紀元前のギリシャ美術でした。古代ギリシャよりもローマが、それよりルネサンスが、印象派が「進歩」したと思ってた人はいなかった。
残りを読む(17)
ログインして広告を非表示にする
ログインして広告を非表示にする