新田義顕、鎌倉攻めを語る。

新田家の一大イベント・鎌倉攻めに参加した記録のない嫡男・義顕が、鎌倉攻めについて語ります。
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新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

こんばんは、義顕です。ただ今叔父上アカウント @wkyyssk_bot では鎌倉攻めが進行中なんだけど、5月11、12日は小手指原(所沢市)での戦いが起こった日なのだ。5月8日に挙兵した父上は、翌9日に武蔵国に入ったといわれているぞ。

2013-05-12 23:37:30
新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

太平記によると幕府は武蔵国を南下する父上の軍勢を防ぐため、金沢貞将桜田貞国率いる軍勢を出陣させている。そして5月11日辰の刻、両軍は久米川と入間川の間にある小手指原で激突することになるのだ。だがその日は決着がつかず、翌12日の戦いで北条軍は敗れ、分倍河原に退却したとある。

2013-05-12 23:41:10
新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

どうやらこの合戦を示す史料はあまりないようなのだ。北条側の大将とされる桜田貞国が六波羅探題の北条仲時と共に自害したことを示す史料もあるらしく、太平記のこの辺りは虚構に満ちた部分が多いのかもしれないな。むろん物語としてはとてもおもしろいところなのだけれど♪(=ω=*)

2013-05-12 23:44:55
新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

.。oO (もし私が参戦していたならば、これが初陣だったのかもしれないなぁ…。まぁ、鎌倉攻めに参加したという記録は何もn(以下略))

2013-05-12 23:47:55

若殿w もういい加減になさいませww

新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

ところで、鎌倉を脱出した千寿王は新田一族の世良田氏の元にかくまわれていたのだが、一体いつ父上と合流したのだろう?

2013-05-12 23:52:11
新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

これに関しては5月12日に鹿島利氏という武将が、世良田にいる千寿王の元に参上し、世良田満義の軍勢に配属されたことを示す史料があるそうだ。満義が18日以降の鎌倉攻めに参加しているのは確かなので、12日から18日のいずれかで両軍は合流したことになるな。

2013-05-12 23:56:16

このあたりに関しては、峰岸純夫氏の論文「元弘三年五月、上野国新田庄における二つの討幕蜂起」(『上野新田氏』田中大喜 編著(戎光祥出版)所収)を参考にしております。

また同氏の『新田義貞』(吉川弘文館)でも解説されておりますので、興味のある方は是非ご覧になってみてくだされ。

新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

ちなみに8日の父上の挙兵に参加した岩松経家は、足利高氏と連携していた節がある。太平記では父上の独壇場な鎌倉攻めだが、実際は両者の協力により成り立っていたといえるのだ。 そして戦いの舞台は、天下分け目の分倍河原へと移るぞ!!

2013-05-12 23:57:47
新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

ちなみに分倍河原駅にある父上像。かっこいー!! http://t.co/IlU1kdkHKo

2013-05-16 23:22:46
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新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

12日に小手指原での戦いに勝利した父上は、武蔵国を南下。5月15日には分倍河原に達した。一方迎え撃つ北条方は、北条高時の弟泰家を大将に援軍を派遣。太平記によると15日の戦に負けた父上は一度退却し、翌16日の戦いに勝利をおさめたとある。

2013-05-16 23:24:33
新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

この戦いは史料でも確実に裏付けられていて、15、16日に合戦があったことは揺るがない。そして小手指原から分倍河原へと戦いが進むにつれ、味方が増えていったことが軍忠状からもうかがえるのだ!

2013-05-16 23:25:51
新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

太平記では、15日の戦いに敗れた父上の元に、大多和義勝が相模国の軍勢を率いて馳せ参じて策を献じ、それを受け入れた父上が翌16日の戦いに勝利する…という展開になっている。これが事実なのかは不明だが、北条方から寝返る者が増えていったという事実を象徴するエピソードだと思うんだ。

2013-05-16 23:27:49
新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

ところでこの戦いの折に、武蔵国分寺が焼けたという伝承があるのだ。国分寺の近くには武蔵国府があるが、武蔵守は代々北条氏が務めていて、国府にもその影響力が及んでいたことがわかっている。おそらく戦いの際に武蔵国府を巡る戦いがあり、それに巻き込まれる形で国分寺が焼失したのだろう。

2013-05-16 23:32:08
新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

.。oO(おそらくあの辺りもそーとー火の海になったのだろうな…)

2013-05-16 23:33:21
新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

この戦いに勝利を収めた父上は相模国に入り、18日には鎌倉攻めとなる。日和見をしていた者たちが一気に味方に付いて、60万7千余騎にもなったというが…これはいくらなんでも盛りすぎだなw だが分倍河原の戦い勝利が戦局に大きな影響を与えたのは確かだぞ!

2013-05-16 23:36:06
新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

分倍河原の戦いの後、父上はなおも南下して18日には鎌倉攻めが始まる。軍を分け、巨福呂坂・化粧坂・極楽寺坂の三方から攻撃を開始したというが、その戦局を決定付けたのは極楽寺坂方面の戦いだった。父上が稲村ヶ崎で太刀を投げ入れると、潮が引き大軍が通れるようになったという伝説の戦いだな!

2013-05-22 23:11:38
新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

けどこれ父上の一番有名なエピソードなのでアレだけど……ぶっちゃけ太平記の創作だよな……。

2013-05-22 23:16:55
新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

実は極楽寺坂方面の大将だった大館宗氏率いる軍勢が、太刀投げをしたとされる日よりも早い18日に、稲村ヶ崎を突破して鎌倉に攻め入っているのだ。北条方の反撃によって宗氏は討ち死にするのだが、合戦が鎌倉内に及んだことで、在住の武士からも父上に味方する者が現れていて、その功績は大きい!

2013-05-22 23:18:52
新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

だが実際は、稲村ヶ崎を突破したことで勝利を得た、という単純な展開にはならなかったようだ。稲村ヶ崎の北にある極楽寺坂では21日になっても戦いが継続していたが、同時期に東勝寺のある葛西ヶ谷での戦いも始まっている。その地で北条高時をはじめとする一門が自害するのは、22日のことだ。

2013-05-22 23:22:22
新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

え?結局どうやって稲村ヶ崎を突破したのかって? 私は干潮を利用して無理やり押し渡ったのだと思うな。大館宗氏の軍勢を防いだ北条方だったが、極楽寺坂と稲村ヶ崎双方からの攻撃を受け、次第に押し負けて鎌倉内への進攻を許すことになったのだろう。兵力では父上が圧倒的に優位だったからな。

2013-05-22 23:27:04
新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

ちなみに稲村ヶ崎を通って鎌倉に至る道(稲村路)は、極楽寺坂が開通する以前は道として普通に利用されていたそうで、当然北条方も守りを固めていた。さっきは創作だといっちゃったけど、父上が士気を上げるために太刀投げのようなパフォーマンスをした可能性はあると思うぞ(=ω=*)♪

2013-05-22 23:29:44
新田義顕@金ヶ崎 @yoshiaki_nt

ところで、太平記では大館宗氏江田行義が大将を務めたとされる極楽寺坂だが、実際は江田ではなく世良田満義が大将を務めていたという指摘がある。世良田満義は千寿王(後の義詮)を匿い、後に新田軍に合流したと考えられている人物だな。では何ゆえ太平記は、そのような入れ替えを行ったのか?

2013-05-22 23:32:59