「ヒトと他の生き物を同列に扱うことへの嫌悪」1 ヒトは「自分がされて困ることは他者にするべからず。」という治安維持方法をとっているが、「なぜするべからず」なのかは「社会の維持のため」という循環論法になっており、論理的な解は存在しない。と思う。
2013-05-11 01:12:12「ヒトと他の生き物を同列に扱うことへの嫌悪」2 「自分がされて困ること」の最たる例は命を奪うこと。ところがヒトは従属栄養生物なので他生物の命を奪わないことには生きていけないジレンマを持つ。 そこで「他者」の範囲を限定することでジレンマの回避を試みる。「意思の有無」である。
2013-05-11 01:14:13「ヒトと他の生き物を同列に扱うことへの嫌悪」3 「意思がある」生き物は動物愛護の対象になるし、食用の動物は意思がないとみなすことでウシとクジラのジレンマの回避に成功した。つまり「意思の有無」という線引は第一原則を守るために生み出された方便なので、こちらも論理的な意義を持たない。
2013-05-11 01:17:28「ヒトと他の生き物を同列に扱うことへの嫌悪」4 ところが旧来の日本の生物観は「自然からの恵みを享受する」ホモ・サピエンス以外の生物は全て「自然の恵み」であり、植物も動物も。食べるも使役するも愛護するもすべて「恵み」である。そのためジレンマは存在しない。個人的にはコレが好き。
2013-05-11 01:23:15「ヒトと他の生き物を同列に扱うことへの嫌悪」5 線引を「ヒトとそれ以外」とする派と「意志のある生物とそれ以外」派のどちらが正しいかは信条の自由なはずなのに、後者のほうが「私はヤサシイヒト」と思い込むたんなる頭の硬いヒトが数多く存在する。
2013-05-11 01:25:51「ヒトと他の生き物を同列に扱うことへの嫌悪」6 この「自称ヤサシイヒト」に論理的な生物観の議論を投げかけると「共感できないザンコクなヒトが私のヤサシサにストレスを与える」と攻撃を受けたと勘違いし、反撃のため攻撃的になる。
2013-05-11 01:28:29「ヒトと他の生き物を同列に扱うことへの嫌悪」7 自称ヤサシイヒトがヒトにすら優しさを行使できない様は、第一原則「自分にされて困ることは他者にするべからず」ジレンマを再燃させてしまう。そこでの更なる回避方法は「ヒトってなんて残酷なんだろう。罪深いんだろう」
2013-05-11 01:31:47「ヒトと他の生き物を同列に扱うことへの嫌悪」まとめ 第一原則「自分がされて困ることは他者にするべからず」 第二原則「他者とは意志を持つ生物とする」 により治安を維持する社会に対し 「ヒトも生物の一種であり特別なものではないのでは?」 という疑問は原則を危うくするため嫌悪される
2013-05-11 01:48:02「ヒトと他の生き物を同列に扱うことへの嫌悪」 反応していただき嬉しいのですが、あくまで妄想に妄想を重ねた二次創作です。出典も怪しい深夜2時 笑。更に妄想。ダーウィンの登場がいかに社会を揺るがしたのか。逆に揺るがなかった日本の自然観がいかに生物学の論理にフィットしやすいか。
2013-05-11 01:58:35なぜ「虫も殺せないヒト」が慈悲深いとされるのか。 なんか新書のタイトルっぽい。 他者の定義を拡張すればするほど慈悲深い、ってモノサシだろう。
2013-05-11 02:17:16