「技術史」講義のまとめ(電通大・佐藤)
ひととおり、直正の改革政治をまとめたが、もちろん現代的な視点ではとても実現できない面も多々ある。借金棒引とか、民主的なプロセスの欠如とか。。。 前近代の改革政治の成否が、君主一人の資質に左右される不安定さも。直正の場合、有能で主張がぶれず、長命だった。これに尽きるような気もする。
2013-06-19 08:29:48今日は写真が1つもなかったので、有田に行った時に撮影したもの。有田焼を載せた橋の欄干w http://t.co/FBUFUtyT41
2013-06-19 08:32:07この回のポイント
○前近代における改革政治の成否を分ける条件(技術史の観点から)
○佐賀藩が幕末に、技術移転にかなりの程度成功した理由について。
○藩主・鍋島直正とその生涯。
○佐賀藩が生んだ人材と明治政府への貢献。
○反射炉はいかにして作られたか。その国内への影響。
第10回 長州藩と薩摩藩の近代化
本日の「技術史」の講義は、長州藩と薩摩藩の幕末近代化の過程。前回の佐賀藩との比較も交えて紹介。まず長州藩の場合は、度重なる対外戦争と幕府軍との戦争、そして藩内の政争が熾烈を極め、佐賀藩のようにじっくりと近代化に精力を傾ける余裕は無かった。それでも、軍備の拡充は急務となった。→
2013-06-26 08:06:37→佐賀藩と同様に、長州藩でも大砲の配備を最優先にした模様。だが、使える技術は伝統的な和式大砲の製造法だけ。それを誰が作っていたかというと、近世初期から城下で鋳物師を営んでいた郡司家をはじめとする職人集団。通常は神社の装飾などを作っていた人たちが、幕末には大砲製造に駆り出された。
2013-06-26 08:10:16→ 郡司家のような鋳物師たちが普段作っていた物は、例えば神社の灯籠や奉納鏡など。萩市の天満宮で撮影した物がこれ。 http://t.co/pR5dubiMRM
2013-06-26 08:12:30平成12年以降、下関戦争や対幕府戦争の時に大砲を製造していた工房の遺跡(郡司鋳造所跡)が発掘調査され、全国でも初となる和式大砲の製造工房の全容が明らかになった。現在はこのように公園化されている。 http://t.co/1wSFbWefSD
2013-06-26 08:15:12この遺跡が公園化された顛末も劇的であった。実は萩市内に新しい道路を作る時、ちょうどT字路の交差点にぶち当たって出てきたのがこの遺跡。さすがに道路計画を変更することもできず、苦肉の策で取られた方法が、遺跡を丸ごと掘り上げて、数百メートル移動させて公園化するというものだった。→
2013-06-26 08:17:54この郡司鋳造所跡に設置された炉は、伝統的な古式炉。そこで青銅を溶かして鋳型に流し込む。これが、もう何というか、純和風技術で。。。佐賀藩や薩摩藩の近代化の傍らで、こんな事していたのか長州藩。。。 写真は鋳型と古式炉の模型 http://t.co/39TDrn60kJ
2013-06-26 08:22:38別の角度から見た、大砲製造の鋳型。鋳型を掘り出す手間を省くため、斜面状に石垣を組んで高さをつけ、上から溶融した金属を流し込む。(大砲の形が分かるように鋳型の模型は一部切り取られています。) http://t.co/nVxyQGbZ0l
2013-06-26 08:26:00この工房で作られた和式大砲のレプリカ。何が和式の特徴かというと、機能としては全く必要の無いネジ栓が砲身のお尻にくっついていること。信じられないような話だが、どうやら火縄銃の構造をそのまま巨大化して大砲として作っていたらしい。。。 http://t.co/pJLSZqUtDB
2013-06-26 08:43:57萩には、近代化を匂わせる遺跡が幾つか残されている。「反射炉」はその代表例だが、実はこれ、炉に当たる地下部分が全く無く、煉瓦の塔だけが突っ立っている。最近の説では、実験的に煉瓦を組み立てただけだろうと言われている。。。 http://t.co/BpN017blKi
2013-06-26 08:46:15いわゆる萩の「反射炉」の接地部分はこんな感じ。たしかに実働した形跡が無いんだよなあ。。。 http://t.co/qv1XTh8m7p
2013-06-26 08:47:34海軍方面の整備も、長州藩は何とかしようとしていた。今残っている遺跡は、恵比寿ヶ鼻の軍艦製造所跡。突堤状の石垣組みが当時のまま残されている。 http://t.co/L443taJkbn
2013-06-26 08:50:57萩の主な近代化遺跡を地区名と共に列挙すると。軍艦製造所(恵比寿ヶ鼻)・反射炉(前小畑)・佐伯火薬庫(無田ヶ原)・郡司鋳造所(松本と青海)・火薬製造所(中津江)・鋳造方(沖原)・ガラス製造所、製薬所(江向)。さて、これらに関わり孤軍奮闘するも、今や忘れられた技術者が幕末の萩にいた。
2013-06-26 08:59:09朝の「技術史」の続き。長州藩の忘れられた技術者とは、中嶋治平(1823 - 1866)。萩城下の朝鮮語通訳の家に生まれるが、これからの時代は蘭学だということで、30代になって本格的に長崎に留学。そこで偶々、コレラ流行を見てその予防法を地元に急報。この功績で藩に取り立てられた。
2013-06-26 16:13:13中嶋は長州藩に取り立てられた後、官費留学として長崎に滞在。その成果を藩主に建白書として出し(1859年)、製鉄・綿羊飼育・製茶・ガラス製造・兵糧パン製造の必要性を訴えている。その後、治平は度々建白書を出して様々な技術の導入を藩主にうったえ、一部は採用され、責任者にもなった。
2013-06-26 16:18:35中嶋の実施した事業は例えば、模型蒸気機関車の試運転、アメリカに撃沈された軍艦壬戌丸の引き揚げ・浮上の成功、ピストル玉の改良・製造、領内の鉱山調査、硝子製造方就任、通貨を分析して金銀分析表を作成、薩摩集成館の視察、製鉄・人工硝石・写真の研究着手、など。八面六臂の活躍振り。
2013-06-26 16:26:27それにしても、中嶋が活躍した時代の長州藩は内憂外患の絶えない時期。攘夷戦を敢行し、2度の長州征伐に見舞われている。その中での殖産興業推進。彼が1866年に病没したのは、本当に惜しいことであった。(一時期、あの大村益次郎も中嶋の配下として領内の調査に奔走している。)
2013-06-26 16:30:25中嶋の事績でやはり人目を引くのは兵糧としての「パン」だろう。四境戦争で石見に出陣した振武隊は藩に対して「パン1万個」の調達を要請した。このことからも中嶋による西洋風兵糧は確実に浸透していたと思われる。写真は萩の有志が復元した兵糧パン http://t.co/carwTwjBP2
2013-06-26 16:35:55さて、次は薩摩藩の近代化。こちらは結構有名かもしれない。開明君主・島津斉彬(1809 - 1858)が推進した近代化路線は集成館事業として結実した。どうやら、佐賀藩の改革政治にも影響を受けていたらしい。集成館は、鹿児島市街から北上した所にある藩主別邸の敷地内に開かれた工場施設。
2013-06-26 16:48:40斉彬の方針も、佐賀と似ている。蘭学者を多数集め、研究・開発させる。それを集成館で採用して事業化していく、というもの。成果だけを列挙すると、反射炉築造、大砲製造、火薬製造、写真研究、洋式帆船建造など。因みに、1857年に撮影された斉彬の銀板肖像写真は、日本人撮影による最古の写真。
2013-06-26 16:56:37斉彬が集めた学者ブレインは多数いたが、有名人は箕作阮甫と川本幸民。箕作は蘭学者で、子孫も学者や政治家を輩出。鳩山元首相も、彼の子孫の一人。川本は化学者で「化学」の語を日本に定着させた人。もの凄い飲んべえで、醸造関係の翻訳ばかりして、ついにはビールを自作。まさに日本のビールの元祖。
2013-06-26 17:03:09