濱口竜介の「はじめのことば」 ⑦会話における「問いかけ」とは

今年(2013年)9月より「即興演技ワークショップin kobe」を開催するにあたり、映画監督濱口竜介が会話や即興における「問いかけ」の機能について考察したツイートをまとめました。
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濱口竜介 @hamryu

「即興演技ワークショップ in Kobe」(http://t.co/bJgd9LETDm)の話もそろそろ一旦締めたいと思っていますが、「聞く」「話す」についてもう少しだけ。ちょっと深い時間なので、踏み込んだことも言って行きます。そしてこの長い話にも一区切りを付けたいと思います。

2013-06-21 02:03:19
濱口竜介 @hamryu

「聞く」ことが、「話す」側の自由な振る舞いや、闊達な声の現れを促すのは、「聞く」者がその場で起きる「話」に自らの身を捧げるからです…が、自分自身を捨て去るような聞き方が果たして、個人として健全なものなのか、いぶかる人もいるでしょう。それは僕にも正直わからないのです。

2013-06-21 02:04:30
濱口竜介 @hamryu

ただ一つ言えるのは「ベタ聞き」はどうもよくない、ということです。「ベタ聞き」というのは河合隼雄が『臨床とことば』(鷲田清一との対談本)で言ったことばで印象に残っているものですが、河合隼雄は講義や講演なんかをしていてあまりに真面目にベタっと聞かれるのはかなわない、と言います。

2013-06-21 02:05:28
濱口竜介 @hamryu

河合隼雄が理想的な聞き方の例として出すのが確か、ドイツの大学で講義をしているときの話で、ある女性が編み物をしながら講義を受けている。ひどく不真面目な態度にも見えるけど、あるとき不意にペンを取り、メモを取る。目が合うと微笑む。これぐらいの聞き方がいい、と河合隼雄は言います。

2013-06-21 02:06:36
濱口竜介 @hamryu

「聞こう」という意識があまりに強いとき、その「真摯さ」は実は話し手を硬直させます(インタビューをしている自分についても、思い当たります)。自分を捨てようと願うのに全然捨ててない(相手を邪魔する)、ということが起こる。即興をしようとすると、即興ができないと言った事態とよく似ています

2013-06-21 02:09:10
濱口竜介 @hamryu

というのは2つはおそらく同じことだからで、理想的な即興状態に入っているときには意図が消えている。捨てるべき自分というのは意図に満ちた自分だったりします。意図は多くの場合、社会の求めに対して応答するうちに身に着くものです。言ってみれば、即興に入るには社会的な身体を捨てる必要がある。

2013-06-21 02:09:48
濱口竜介 @hamryu

しかし、意図が消えるから即興状態に入るのか、即興状態に入ることで意図が消えるのか、前後関係は判然としません。ただ、既に意図を持ってしまっているとしたら、もし本当に素晴らしいことを何度も即興を通じて起こしたいという、そんな意図をどうしても捨てきれないならば、一体どうしたらいいのか。

2013-06-21 02:11:06
濱口竜介 @hamryu

おそらくはある制御不能な状態に巻き込まれるしかないんだろうという気がしています。自分の意図など役に立たないような状況の中に入って行くこと。それだったら、勇気さえ持てれば、そうした状況を作り出すことぐらいはできるでしょう。それはとてもひどい結果になる可能性もありますが。

2013-06-21 02:11:41
濱口竜介 @hamryu

「聞く」「話す」ことに即した方法を探るなら、それは「問いかける」ことではないでしょうか。「問う」ことは「聞く」ことと「話す」ことの中間地点、折り返し地点として存在します。「問う」こと自体はかなり意図的、意識的な行為であって、「問う」者自身が即興をするということからは遠い。しかし…

2013-06-21 02:12:57
濱口竜介 @hamryu

重要なことはおそらく、問いかけとは「わからない」という事実をある場に持ち込むことだということです。我々は「わからない」と口にすることをあまり許されていない社会に暮らしていますが(特に大人になると)、実際のところわかっていることというのは随分少ない気がする。僕だけでしょうか。

2013-06-21 02:14:17
濱口竜介 @hamryu

問いかけることは言外に「わからない」と告白することで、うまく行けば相手を「わかる」世界から「わからない」世界へ移行させます。それは(「わかる」でできている)社会生活が遠ざけている、危険な世界です。ただ,この危険な世界を駆け抜けるようにして初めて会話は始まるのだという気がします。

2013-06-21 02:15:12
濱口竜介 @hamryu

『うたうひと』の中で小野和子さんは「聞き手と語り手が手を取り合って、お話の世界に入って行く」と口にします。民話の世界は、この世のルールを脱臼させた「わからなさ」の世界です。ある「わからなさ」の中に分け入るとき質問者と応答者、聞く者と話す者の区別は曖昧になり、無限の交替が起きる。

2013-06-21 02:16:22
濱口竜介 @hamryu

インタビューをしていて、質問をしているのは僕なのだけど、どちらかと言えばその問いは、僕の問いというよりもその人がしている問いなのだ、と感じることがあります。そして、その人の答えは僕の答えでもあるように感じる。まさかそれを、一つの声のようだとは言わないし、言うべきでもないでしょう。

2013-06-21 02:17:32
濱口竜介 @hamryu

ただ、別々の声が存在したまま、それが一つのことを継ぎ合っているような感覚を得ることがあります。これが起きるとき、演技空間においても、日常生活においても「聞く」のが誰で、「話す」のが誰かは既に問題にはならない。起こしたいのはそういうことです(言ってしまった。ああ、こわい)。

2013-06-21 02:20:00
濱口竜介 @hamryu

神戸で行う「即興演技ワークショップ」は、僕なりに「わからなさ」に分け入るための一つの試みです。そこで、もう一つ本当に僕にとってはよくわからない「動く」ということも考えてみたい。それは多分、理想的な即興状態の傍らにカメラがどうやったらいられるか、という問題ともつながります。

2013-06-21 02:20:34
濱口竜介 @hamryu

次回は、僕があまりによくわかっていない「動く」ということの水先案内人になってくれる人の話をして、このあまりに長い「宣伝文」を一旦締められたらと思います。深夜とは言え、大変長くなり失礼しました。おやすみなさい。

2013-06-21 02:21:20