海の上のサムライ

私の誇り、工藤艦長とサー・フォールの物語よ。
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雷bot @DD_Ikaduchi_bot

ちょっと、長い昔話をしてもいい? ある、駆逐艦艦長の話を……

2013-07-03 21:25:26
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

あれは1942年2月28日、ジャワ海北東部スラバヤ沖でのことよ。 当時の戦況は私たちが圧倒的に優位で、私は「足柄」さんや「妙高」さん、「那智」さんや「羽黒」さんたちと一緒にに英国を始めとする連合国艦隊に連日猛攻撃を浴びせていたわ。

2013-07-03 21:26:29
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

この時、私の放った魚雷で英国の重巡洋艦「エグゼクター」が轟沈。 そしてフォール中尉という英国人の乗った駆逐艦「エンカウンター」も攻撃を受け、エンジンが停止。 乗員達は脱出を始めたわ。

2013-07-03 21:27:27
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

3月31日午後2時、全員が救命ボートで脱出し、エンカウンターは海に沈んだわ。 この時、近くには沈没したエグゼクターや他の船の乗組員を含め400名以上が漂流していたの、8隻の救命ボートでは不十分で、漂流しながらしがみつくのがやっとだった。

2013-07-03 21:28:07
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

しかしフォール中尉は、沈没する前に打ったSOSの信号を受信できる距離に味方のオランダ軍基地があったため、すぐに救助が来ると思っていたみたい。

2013-07-03 21:28:24
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

でも、いつまでたっても救助は来なかった。 怪我をした足を魚につつかれ、不安の中でサメに襲われたと勘違いしてパニックに陥る兵士達も多かったみたいね。

2013-07-03 21:28:57
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

漂流から20時間が経ったわ。 フォール中尉達の前に船の姿が現れた。 それが私、駆逐艦「雷」だったの。 指揮をするのは工藤俊作少佐。身長185cm、体重90kgの堂々たる体格の孟将よ。

2013-07-03 21:30:12
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

私の乗組員が、多数の浮遊物に気づいた時、工藤艦長は、潜水艦の潜望鏡が見えないかどうか確認するよう、航海長の谷川清澄中尉に指示したわ。 私はこの2ヶ月前にアメリカの潜水艦から魚雷攻撃を受けていたし、前日には日本の輸送船が敵の潜水艦に撃沈されたばかりだったので当然よね?

2013-07-03 21:30:38
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

潜水艦が潜んでいる可能性のある油断できない海域だったため、乗組員には戦闘用意が指示されたわ。 でも、浮遊物が敵のイギリス兵らしく、400名以上いることがわかったの。

2013-07-03 21:31:27
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

悲しいけど戦場に情けは無用。 前年には日本の病院船の救命ボートが攻撃され、て158名が死亡するという悲惨な出来事も起こっていたわ。 私が漂流者を射程距離に捕らえた時、工藤艦長が見たのは、ボートや瓦礫に捕まり、必死に助けを求めるイギリス兵たちの姿だった。

2013-07-03 21:32:14
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

フォール中尉たちも私に機銃掃射されると最期の瞬間を覚悟したわ。 でも私は、救難活動中を示す国際信号旗が掲げた。 いつ潜水艦に襲われるかわからない危険海域で、なんと工藤艦長が敵兵を救助するよう指示を出したの。

2013-07-03 21:33:13
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

最初、乗組員達は、自分たちより数の多いイギリス兵を助けることに戸惑っていたわ。 でも、工藤艦長は「敵とて人間、弱っている人間を相手にフェアな戦いはできない」と言って海軍兵学校の頃から教育されてきた武士道の精神に従ったの。 乗組員達もこの考えに従うことになったわ。

2013-07-03 21:33:47
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

そして、救出が始まると、乗組員達はまずは自力で上がれる者に縄梯子などを差し出したの、でもイギリス兵たちはまず弱っている病人たちを先に救助するよう求めたわ。 そこで乗組員達は病人達を担いで私に引き上げたの。

2013-07-03 21:35:09
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

21時間の過酷な漂流でイギリス兵たちの体力は限界を超えていたわ。 最期の力を振り絞って、雷まで泳いできても、自力で上がれる者がほとんどいなくて、救助の手はとても足りなかった。

2013-07-03 21:35:30
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

すると工藤艦長は、一番砲だけ残し総員敵溺者救助用意を命じたの。 危険な海域にで最低限の人間を残し、全員で救助活動に当たることになったわ。

2013-07-03 21:36:04
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

そして、イギリス兵たちの救助は続いた。 イギリス兵の中には体力の限界を迎えて自力でロープも棒も掴むことができなくなっている者もいたのだけど、そんな彼らを、乗組員達は海に飛び込んで抱えて救助していたわ。

2013-07-03 21:37:16
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

この時、救助活動を見ていた工藤は、魚雷搭載用のクレーンでも何でも、使えるものは何でも使って救助するように指示したわ。 救助に使えそうな私の装備全てを使って救出をすることになったの。

2013-07-03 21:39:23
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

そして、私の甲板では乗組員が重油や汚物で汚れたイギリス兵達の体を綺麗な布で優しく拭き、自分達にとっても貴重だったはずの真水や食料でさえも惜しみなく与えたの。 もうこの時、私の周りには敵も味方もなかったわね。

2013-07-03 21:40:14
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

周囲の漂流者を助けた後、工藤艦長はさらに他の漂流者を残らず救助するように指示したわ。 遠方に一人でもいたら船を停止し救助していったのよ。 そして、全員を救助し終った時、その数は私の乗組員の倍近い422名にのぼったわ。

2013-07-03 21:41:23
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

救助活動が終ると、工藤艦長は士官のみを集合させた。 そして彼らに「諸官は勇敢に戦われた。諸官は日本海軍の名誉あるゲストである」と英語で伝え、手厚く歓迎したの。  この422名は翌日、私がボルネオ島の港まで送り届け、で日本の管轄下にある病院船に捕虜として引き渡されたわ。

2013-07-03 21:43:03
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

そして、終戦後、救出されたフォール中尉は家族と恋人の待つ祖国イギリスに帰国し、サーの称号を与えられるほど有能な外交官となったわ。

2013-07-03 21:43:58
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

1996年、サー・フォールは自らの人生を「マイ・ラッキー・ライフ」という自伝にまとめたわ。 その冒頭には「この本を私の人生に運を与えてくれた家族、そして私を救ってくれた工藤俊作に捧げる」と書かれてあったの。

2013-07-03 21:44:22
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

サー・フォールは自分が死ぬ前に工藤艦長に会いたくて日本を訪れたことがあったわ。 でもその時、工藤艦長の消息は掴めなかったの。

2013-07-03 21:44:57
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

実は工藤艦長が別の船の艦長になった1942年、私は敵潜水艦に撃沈されて乗組員全員を死亡させてしまったの…… 工藤艦長はそのショックからか戦後は戦友と一切連絡を取らず、親戚の勤める病院を手伝いながらひっそりと暮らしていたみたい。

2013-07-03 21:45:28
雷bot @DD_Ikaduchi_bot

そして昭和54年1月4日、工藤艦長は77歳でこの世を去った。 工藤艦長は自分のことを何も語らずに亡くなったので、サー・フォールが来日しなければこの話は誰にも知られることはなかったわ。

2013-07-03 21:46:11