議論好き腐女子たちが議論してみた。
- tobari_zap
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@tobari_zap @pul730 うん、それはその通り。だから、社会通念よりそっちが当然優先されるわけで。そして本当にわかってきたけど私史学だと普通に帰納的であろうとするから色々変な人間なのだと思った。
2013-08-08 22:27:49@ktmsmrg @pul730 でも個人に頼った事実しかなければ「社会通念」という多数に支えられた事実に自分以外が根拠となる決定的矛盾を挙げないといけなくなる。思い違い、で切り捨てられかねない。という考えが帰納の一般化かな?
2013-08-08 22:32:28@ktmsmrg @pul730 例えば「この人の日記にはこう書いてあった!」としてもそれがそのまま「本当に起きたこと」であるかはわからないということです。
2013-08-08 22:42:47@tobari_zap @pul730 ふんふん。なるほど。帰納だと日記は事実である根拠にはならない?ていうか「あったかも知れないしなかったかも知れないがなかった可能性が高い」か
2013-08-08 22:50:49@ktmsmrg @pul730 そして日記と社会通念が矛盾し、さらに日記の方が正しいとするには日記の書き手以外のものを根拠として社会通念が間違っていることを証明(あるいは可能性と)せねばならない。
2013-08-08 22:57:49補足
少し前に出ていた「帰納は独善的であることに意味がある」というのがどういうことかよくわからなくなってきたと思うので、補足しておきます。
何度か述べていますが帰納で導きだした結論を否定するには「論理的、叙述的破綻を指摘する」か「前提あるいは結論が決定的に事実がそうでないということを示す」必要があります。
ここでいう「論理的、叙述的破綻」とは筋が通らない話をしている、またはそもそも言語的な意味で定義不足なために齟齬が生じていることを言います。
事実でないことを示す、とは例に挙げた「A(人)は死ぬ」(以下略)でいうと、この前提から「人は死ぬ」という結論を出したとき、これを否定するにはまず「死なない人D」がいなければなりません。
この「死なない人D」が現れない限り、この結論を否定することは誰にも出来ません。
これが私のいう「独善的」であり、誰にも自分を否定することを許さない、の意になります。
今回のまとめ