「責任を果たす」ということは、「すでにすべきだとわかっていることをすること」ではない・・・正解主義の陥穽

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H.Takano @midwhite

中高生向けの某イベントで講演を聞いていて興味深かったのは、東大大学院の教授が大学進学の目的を「社会的想像力」を育むことと断言したこと。一般に「考える力」とか呼ばれている抽象的な概念を、非常にうまく分節できている言葉だと思う。まさにカタリバを通して必要性に気付いたことの1つだ。

2013-08-03 18:13:46
H.Takano @midwhite

つまり、高校までの勉強が「知っているかどうか」を問い、それに答えられなかったことが「知らなかった」ことを意味するのに対し、大学からの勉強は「どう想像するか」を問い、それに答えられなかったことは「想像できなかった」ことを意味する。答えの無い問いは、洗練された想像力を要求する。

2013-08-03 18:25:54
H.Takano @midwhite

例えば「責任を取るとは何か」という問いの答えは、予め「知っている」ようなものではない。その場の文脈や自分の経験からうまく答えを想像することでしか、結論を出すことができない。そこで出た答えが他の人と異なれば、なぜ異なるのかを議論の中で見つけ出すことで、さらに想像力を鍛え上げる。

2013-08-03 18:29:33
H.Takano @midwhite

他にも、例えば選挙で投票率を見て「若年投票率が低いので若者向けの政策が打たれないかもしれない」と仮説を立てるのも知識ではなく想像力だし、それを聞いた時に「いや若者全体に共通する利害なんて無いかもしれない」と反論するのも知識ではなく想像力だ。知識はその想像力を育むために必要だ。

2013-08-03 18:39:37
H.Takano @midwhite

象徴的に言うなれば、高校までが「知っていることについて答える勉強」であるに対し、大学からは「知らないことについて答える勉強」である。知らないことについて考えるには想像力が必要だし、想像力は知識を獲得する過程で養われる。ある分野の体系的な知識が、他分野の体系を想像する助力になる。

2013-08-03 18:43:21
H.Takano @midwhite

後悔ばかりする人は、往々にして行動する前の判断能力ではなく、行動した後の評価能力に問題がある場合が多い気がしている。同じ物事を見ても前向きに捉える人と後向きに捉える人がいるように、同じ行動と結果を見ても自分にプラスと評価できる人もいれば、マイナスにしか評価できない人もいる。

2013-08-08 08:20:50
H.Takano @midwhite

企業の労働分配率や雇用保障、有給休暇や福利厚生といった問題を扱う時、それらを充実させる原資は基本的に企業の収益性であり、ここが低ければ労働者に還元しようが無い。日本企業はバブル崩壊後、自社の創出する価値を増やすのではなく人件費などのコストを下げる方向で対応したため、ここが弱い。

2013-08-08 10:28:53
H.Takano @midwhite

自らが付加価値を上げる経営努力を怠っておきながら、自分たちが潰れた時に路頭に迷う労働者たちを人質に取り、政府から有利な保護政策を引き出してきたことの代償は大きい。法人税が減税されなければ再投資の原資を確保できない程度の付加価値しか生産できないなんて主張するの恥ずかしくないのか。

2013-08-08 10:38:48
H.Takano @midwhite

大学生が「不況で奨学金を返済できないので給付制にしてほしい」と言うと自己責任を放棄した甘えで、大企業が「不況で借入金を返済できないので法人税を下げてほしい」と言うと国際競争力を確保するためと正当化される。要は政治的発言力が妥当性を決定する。低所得インテリが団結しても数は知れる。

2013-08-10 19:29:33
H.Takano @midwhite

少なくとも普通に真面目に働けば、普通に暮らしていけるだけの社会であってほしいと僕は思いますよ。誰しも普通に遭遇しうるリスクが人を貧困に陥れ、脱出が非常に難しい社会は間違っていてほしいと思う。それは何かがおかしい、何とかしなければならないと思える人が指導的な地位についてほしい。

2013-08-11 19:17:45