大蔵合戦それぞれ(858年後)

当日に父(畠山重能)が来ました。 えーと勝手に語っているのであとでまとめ直しと補足をしますw
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吉川弘文館営業部official @yk_sales

【今日は何の日】久寿2年8月16日(J 1155/9/14)源義平、武蔵国比企郡大蔵館で叔父義賢と合戦し殺害する(百練抄八月二九日条・吾妻鏡治承四年九月七日条)。『日本史総合年表 第2版』より。 #yk_nannohi

2013-08-16 08:07:56
畠山重忠 @Shigetada_bot

大蔵館は昨日に行ってきた。私の父上の時代の話で、わたしは生まれてもいなかった。とはいえ、秩父党の中の辛い戦いではあったと聞いている。 http://t.co/3Lm6YYF2wK

2013-08-16 22:13:06
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河越太郎重頼 @shigeyori_bot

大河のように、あんなおびえた感じではなきったはずだ。弓矢もうまかった。不意打ちで負けるとは、そういうことだ。

2013-08-16 05:52:48

秩父重隆殿 :秩父重綱次男、武蔵国留守所総検校職を引き継ぎ秩父党家督を継いだと見なされる。長男である重弘との間に確執があったと思われ、源義賢殿を養君として迎え入れた後に重弘の息子である重能(私の父上)によって大蔵合戦にて討死。

上のツイートは義賢殿のことを語っていると思われる↑

河越太郎重頼 @shigeyori_bot

兄の重弘でなく、私が継いだことで多くの災いが起こるわけだが http://t.co/Ctxu4hIsgz

2013-08-16 22:18:14
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畠山重忠 @Shigetada_bot

重隆の叔父上、その節は申し訳ない。ちょうどこの時代は、乱暴な事が多かったな……RT @shigeyori_bot 兄の重弘でなく、私が継いだことで多くの災いが起こるわけだが http://t.co/DyML2geqep

2013-08-16 22:22:15
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畠山荘司重能(しげよし):秩父重綱孫、秩父重弘の長男。私の父上である。母は横山隆兼の娘、妻は三浦大介義明の娘。
大蔵合戦で源義平さまを大将に、叔父である秩父重隆を討取る。この際に、曾祖父である平武基が後三年の戦功で賜った源氏の白旗を掲げ参陣したという。

畠山重忠 @Shigetada_bot

先ほど重忠がリツイートしておった通りだが、久寿2年8月16日、旧暦本日は大蔵合戦の起こった日である。私が、悪源太義平さまと共に、叔父の秩父重隆源義賢殿を討取った日だ。

2013-08-16 22:27:43
河越太郎重頼 @shigeyori_bot

@Shigetada_bot 息子、孫と生きていただけでも、良かった。

2013-08-16 22:26:08
河越太郎重頼 @shigeyori_bot

夜襲。保元の乱でも、明暗を分けた一因とも言われているが

2013-08-16 22:31:12
畠山重忠 @Shigetada_bot

そんな言い方をしないでくだされ…同族の争いはこの時代よくあったことだが、せめて私ができたことは重隆叔父上の遺児を引き取り、名を能隆とし家を繋ぐ事だけだった。まあ、平治の乱でまた難しくなるんだが。RT @shigeyori_bot 息子、孫と生きていただけでも、良かった。

2013-08-16 22:32:18
河越太郎重頼 @shigeyori_bot

大蔵合戦も、秩父党の内部争いだけではなく、源氏三浦氏足利氏新田氏とか周辺やら、複雑だし。平治の乱かRT @Shigetada_bot: そんな言い方をしないでくだされ…同族の争いはこの時代よくあったことだが、せめて私ができたことは重隆叔父上の遺児を引き取り

2013-08-16 22:36:30
河越太郎重頼 @shigeyori_bot

父の重綱はなぜ私を継がせたのだろうか。重弘兄がいたのに

2013-08-16 22:42:08

以前の大蔵合戦語りでも父上が広げた秩父党家系図をここに置いておきますぞ。この図の中で重綱子息の右よりで「重広」となっているのがここで話されている「重弘」祖父上だ。
http://twitpic.com/bv2mib

畠山重忠 @Shigetada_bot

この頃の関係を少し説明しよう。 大蔵合戦で私、重能が討った秩父重隆は私の叔父上、つまり私の父、重忠の祖父である秩父重弘の弟だ。本来であれば長男の重弘が引き継いだはずの秩父党惣領の職、武蔵国留守所惣検校職を次男流の重隆が引き継いでいた、これがまずひとつ。

2013-08-16 22:39:26
畠山重忠 @Shigetada_bot

秩父党は、武蔵国の惣領格である立ち位置であったが、それぞれの家の独立性は高かった。それはいわゆる武蔵七党といわれる姻戚関係で複雑に絡み合う、武蔵国武士団とも同じく、広大な領地と隣り合う他国の脅威の中で素朴な結束もできぬ独特な一族でもあったと思う。今となっては。

2013-08-16 22:45:18
畠山重忠 @Shigetada_bot

秩父重隆は次男流でありながら武蔵国の検校職を継いだわけだが、そこで起きた亀裂はやや複雑でな。まずその父、私の祖父上である重綱が児玉党より妻を娶る、私の祖母であり、鎌倉悪源太義平さまの乳母、通称で「乳母御前」だ。

2013-08-16 22:55:09
畠山重忠 @Shigetada_bot

児玉党と祖母との間にどういうやりとりがあったかは知らぬが、祖母は重隆叔父上への秩父党惣領の継承を快くは思っていなかったのかもしれぬ。または……それは、重隆叔父上が義賢殿を養君として迎えた事に対する児玉党の思惑であったのかも知れぬ。

2013-08-16 23:08:24
畠山重忠 @Shigetada_bot

養君、養子という形で親子の契りを交わす事で、それは秩父党惣領の地位を義賢に渡すという意味であったのかもしれない。この場合は様々な解釈ができるのだが、その可能性はあった。重隆叔父上が周囲の脅威への対抗策として、源氏と言う貴種を盾としようとした。少なくともそう取れる行動に出たのだ。

2013-08-16 23:13:09
畠山重忠 @Shigetada_bot

それに対抗する事ができるのは、相模国に在していたもう一つの源氏の地である義平さまである。児玉系秩父党の乳母御前。義平さまの妻は義賢殿の本拠地の上野国多胡郡に隣接する新田の娘。義平さまの母は三浦大介義明の娘つまり、私、重能の姉妹である。

2013-08-16 23:20:28
鎌倉悪源太義平 @akugenta_bot

という訳で、旧暦の今日は大蔵合戦が起こった日だ。 概要は先程RTした通り、俺が大蔵館を攻めて義賢叔父上を斃したという事になる。ただ普段から言っているがこれは源氏内部での争いだけではなくて、周辺の武士団の抗争も大きく関わっていたのだ。

2013-08-16 22:58:33

源義平さま(鎌倉悪源太義平):源義朝さま長男、母は三浦大介義明の娘(重能父上と相婿であり重忠の叔父上にもあたる)。乳母に秩父重綱の妻、児玉党の乳母御前。鎌倉にて育ち、十五歳初陣の大蔵合戦にて武名をあげる。